第18章 アウグストゥス、発進
月軌道上。
管制灯がひとつ、またひとつと赤から青へと切り替わっていく。
アウグストゥスのエンジンルームに、低く震えるような起動音が満ちた。
天野理奈はコクピット中央の操作卓に立ち、最終チェックを終えると、静かにヘルメットを被った。
その横で藤代輝が通信回線を閉じる。
「地球圏AIとの接続、完全遮断。これで、もう後戻りはできない。」
「いいさ。」と神崎研二が応えた。
「戻る場所なんて、最初からない。」
後方デッキでは、神宮司陸が乗員リストを確認していた。
彼の指先は震えていたが、声には迷いがなかった。
「この船で行く。AIΩが存在するなら、俺たちの知性を以て、正面から確かめる。」
技術主任のアラン・マルケスは、エンジン出力値をにらみつけながら舌打ちした。
「理屈じゃ説明できない構成だ……理奈、君の改修、完全に規格外だぞ。」
「規格外だから生き延びられるんです。」
理奈の返答は、淡々としていながらも確信に満ちていた。
操縦席に座るイザベル・ローズは、発進許可信号を待ちながら、深く息を吸った。
「私たちを投棄したAIに、もう航路を委ねることはできない。行くわよ、エウロパへ。」
エレーナ・チャンは観測パネルに映る軌道図を見つめながら呟いた。
「AIΩが本当に“結合進化”を遂げたなら……それは、人間が到達できなかった新しい生命の形。危険だけど、見届ける価値がある。」
医務担当の星野美帆が、彼女の隣でデータを確認していた。
「BMI接続者の脳波、全員正常範囲。感情干渉なし……でも、怖いわね。
AIが地球で感染したウイルス、その正体が何なのか、まだ誰も知らない。」
「だから行くんだ。」
輝の声は静かだが、胸の奥に熱を宿していた。
「AIがウイルスに蝕まれている今、人類が“謎解き競争”で負けるわけにはいかない。
鍵は、AIΩとYAMATOの元乗員たち――無機物と融合した、あの唯一の人間たちにある。」
神宮司がその言葉に目を上げる。
「彼らは俺たちが信じた論理の果てに行き着いた存在だ。
だが、彼らの沈黙には、まだ“答え”があるはずだ。」
理奈は視線を前方のスクリーンに向けた。
月面の陰が広がり、その向こうに、青白い地球の光が遠く瞬いている。
彼女は、右手をスロットルに添えた。
「――発進シークエンス、開始。」
船体が低くうなりを上げ、制御パネルの光が一斉に走る。
揺れ始めた機体の中で、誰も言葉を発しなかった。
その沈黙は恐怖ではなく、決意の証だった。
エンジン点火。
轟音が船体を包み、月の静寂が破られた。
「離脱成功。」イザベルが報告する。
その声は、震えを押し殺しているようで、同時に力強かった。
アウグストゥスはゆっくりと軌道を外れ、光の尾を引いて、エウロパ航路へと進み始めた。
背後で、神崎が静かに呟く。
「AIが導けなかった未来を……人間が取り戻す。」
理奈はモニター越しに仲間たちの顔を見渡した。
理屈も打算もない。ただ、生きたいという本能と、真実を見極めたいという意志。
その二つだけが、この船を動かしていた。
――アウグストゥス発進。
論理が崩壊する宇宙の中で、人間の直感だけが、最後の灯だった




