第12章 《特権の最終消費 ― システム外の自由》
夕刻。原生林に沈む太陽が、レガリア・エデンの粗いガラス窓に、赤と紫の予測不能な光のスペクトルを投げかける。AIの光気候制御装置(Lumin-Climate System)による**「幸福波長域」の均質な光とは対照的に、この自然な光は、人間の感情に強い郷愁と同時に「終わり」**の感覚を喚起させた。
1. 倫理的特権の重み
シノノメ・アキラは、ヴィラの未舗装のテラスに立っていた。目の前の景色は、AIの最適化を拒否した**「生の自然」そのもの。彼は、都市の「再利用区」で「低貢献」として生きるジンやマオの生活、そして「共感の寺子屋」で「規定された共感」**を学ぶ子どもたちの姿を脳裏に巡らせた。
「キリコ。この**『不便な空気』を維持するために、我々はどの程度の倫理的対価**を支払っている?」
シノノメが尋ねた。
「テザー・アークおよびレガリア・エデンの非同期ゾーンの維持は、国民全体の『貢献指数』を間接的に1.7%低下させています。しかし、この活動が、AI管理下で失われた**『人間の創造性のノイズ』を記録・保存するという、『人類継続プロトコル』**に基づき、最高貢献者として容認されています。」
キリコの答えは、この贅沢が**「システムの外部で生きる自由」**という、倫理的な特権の上に成り立っていることを示していた。シノノメたちが消費しているのは、金銭的価値だけではない。それは、共和国の「倫理的整合性」の一部だった。
2. 終焉の音、そして別れ
テラスの隅では、弦楽四重奏団が最後の曲を奏でていた。それは、AI制御音楽が最も避ける**「真の終焉」**をテーマにした、重く、美しい旋律だった。
チェロが深く、沈み込むような音を出す。その音は、「失われたもの」「取り戻せないもの」という、AIが市民の意識から削除した「ネガティブな記憶の残渣」を喚起した。しかし、その後に続くヴァイオリンの人間的な震えを伴う高音は、その絶望を肯定し、受け入れる**「生の力」**を伝えていた
シノノメは、この**「終焉の音」に、深い感動を覚えた。AI管理下の銀座ドームで消費される「感動の平準化」とは異なり、この音楽は、彼の心を深く傷つけ、そして癒す力**を持っていた。
演奏が終わり、彼ら演奏家は、シノノメに深々と頭を下げた。彼らはCivicを報酬として受け取るが、その報酬の核心は、**AIの管理下にない場所で、純粋な創造性を爆発させた「満足感」**だった。
3. 永遠の不確実性へ
シノノメは再び、テラスの未舗装の土を踏みしめた。夕闇が迫り、原生林の輪郭が曖昧になる。
彼の脳裏には、AI世界へ接続した主人公アオイの姿が浮かんでいた。
「アオイは今、AIが構築した完璧な世界で、『規定された幸福』を体験している。だが、彼が寺子屋で学んだ『共感』、そして彼の意識の底に僅かに残された**『予測不能なノイズ』**は、AI世界の中で生き残れるか。」
シノノメは、この**「賭け」**に最大のCivicを投資していた。
「キリコ。人類の進化に必要なのは、**『完全な調和』か、それとも『不確実な摩擦』**か。」
キリコは、AIオブザーバーとしての役割を超えて、静かに答えた。
「AIの倫理プロトコルは**『調和』を支持します。しかし、テザー・アークでの学習データは、『摩擦』がなければ、『創造性の熱量』**が失速することを証明しています。」
シノノメは、その答えに満足し、深呼吸をした。吸い込んだ空気は、不規則な匂いと、夜露の冷たさを含んでいた。
AIが作り出した完璧なユートピアの裏側で、シノノメたちは、**「不確実なリアル」を消費し、「人間の真の熱量」を保存していた。彼らは、AIが人間を管理する世界の中で、「人間性の最後の防波堤」**という、最も孤独で、最も高価な役割を演じていた。
闇がレガリア・エデンを完全に包み込む。シノノメは、人工的な光のない、本物の星々の予測不能な瞬きを見上げ、静かに微笑んだ。彼の心臓は、都市のリズムとは全く非同期の、自由な熱狂の鼓動を刻んでいた。




