第11章 超富裕層の真の贅沢
第II章 《非同期の芸術 ― 魂の不協和音》
正午。シノノメは、レガリア・エデンのヴィラに戻った。午後の陽光が、AIの調整を拒否した粗いガラス窓を透過し、室内の**「五感加速ホール」に不規則な光のパターンを投げかけている。このホールは、都市の「感情無菌室」とは対照的に、人間の「制御されていない創造性」**を消費するために作られていた。
1. 震えるような音楽の感動
ホールの中心では、四人の人間からなる**「天然演奏体(Organic Ensemble)」**が、即興で弦楽四重奏を奏でていた。彼らは、AIによる楽譜の最適化や、音響の感情補正を一切受けていない。
シノノメは、耳にBMI補正チップを装着していない状態で、その音楽を聴いた。その音は、銀座シンフォニック・ドームの**「集団快楽曲線」**に沿った完璧な旋律とは根本的に異なっていた。
ヴァイオリンの音程は、わずかに、しかし確実に人間の手の震えによって揺らぐ。チェロの響きは、奏者の深い疲労と個人的な苦悩を反映し、AIが許容するリラックス波長を外れた重い低周波を放つ。四つの楽器のアンサンブルは、一瞬の緊張の後、論理的な調和ではなく、情熱的な共鳴によって結びつく。
シノノメの脳内には、AIが抑制するはずの**「不安」「焦燥」「哀愁」**といった感情が、音の波として直接叩きつけられた。
「キリコ。今の演奏の、**『感情的対立のピーク』**は?」
「解析の結果、ヴァイオリン奏者の**『技術的な焦り』と、ヴィオラ奏者の『美的解釈の相違』が、最大で6.1秒間、不協和音として持続しました。これは、AI制御下では即座に修正される『非効率な芸術』**です。」
「そうだ。その不協和音こそが、彼らの魂の真実だ。我々がCivicを支払うのは、完璧さではない。この予測不能な感情の震えが、AI世界では失われた**『生の感動』**なのだ。」
この音楽は、シノノメの心を整えるのではなく、あえて心を乱し、揺さぶることで、彼に**「生きているという生の衝動」**を再認識させていた。
2. 繊細な味覚と創造性の視覚化
続いて供されたランチは、AIの栄養演算と衛生管理を徹底的に拒否した、**「不完全燃焼の芸術」**だった。
料理は、人間シェフによる**「非効率な手作業」と「予測不能な火加減」によって作られる。メインの魚料理は、一見すると焦げ付いているように見える。しかし、その焦げの苦味(マイヤール反応の予測不能な結果)**が、天然の塩味とハーブの香りと組み合わさることで、舌の奥に複雑な記憶を呼び起こす。
盛り付けは、中環モールの均質なパッケージとは全く異なる。皿は、すべて異なる角度で置かれ、ソースは意図的に非対称に散らされている。それは、AIの美的最適解を拒否した、画家のインスピレーションに基づいていた。
シノノメは、その料理を口に入れた瞬間、目を閉じた。
「この苦味。これは、AIが市民から削除した**『失敗の記憶』の味だ。そして、この盛り付けの不均衡は、我々が失った『自由な選択』**の視覚化だ。」
彼は、シェフの皿への一筆一筆のソースの痕跡から、シェフの**「献身と疲労」という、AIがCivicに変換しきれない生の労働の価値**を感じ取っていた。
3. 人間が描く「怒り」の色彩
ホールの壁面には、若い人間の画家の作品が掛けられていた。その油絵は、銀座の娯楽ドームで許容される**「リラックス波長」の色彩とは全く異なる、「怒りと苦悩」**というネガティブな感情を、暴力的な色彩で表現していた。
色は、AIの色彩理論を無視して濁り合い、激しく衝突している。描線は乱れ、キャンバスはまるで内面からの圧力で破裂しそうに見える。
「この画家は、AIが最適化した**『幸福の規定』に抗っている。彼の『怒り』**こそ、この社会のシステムの外側にある、生の真実だ。」
シノノメは、その不快な美を、Civicの最高の対価として消費した。AIが市民から削除し、**「再利用区」へと廃棄したはずの感情の断片が、ここでは「最高の芸術」**として扱われている。
彼の周りにあるのは、すべてが**「不完全燃焼の証拠」だった。不正確な音楽、偏った栄養の料理、そして濁った色彩。その予測不能な刺激**こそが、シノノメの意識を、AIによる完璧な管理から解放する、究極の特権だった。




