第10章 超富裕層の真の贅沢
《レガリア・エデン ― 予測不能の美の震え》
夜明け。東京湾から南へ400キロ。AIによる管理システムと光気候制御装置の結界から、例外承認によって切り離された**「非同期自然保護区」。その中心にあるシノノメ・アキラのプライベート・ヴィラ「レガリア・エデン」**は、夜の間に降りた霧の中に静かに息づいていた。
1. 覚醒するリアルな五感
シノノメがヴィラの寝室の窓を開けた瞬間、室内に流れ込んできたのは、中環モールの**「最適化された空気」**とは全く異なる、予測不能な五感の奔流だった。
冷気。AIが体温維持に最適化した26.5℃ではない、原生林の湿気を含んだ生の朝の冷たさが、皮膚の毛穴を無理やり開き、血行を急激に促す。肌に触れる微かな風は、AIが生成した**「リラックス波長」の音波**ではない。樹々の揺れや、遥か遠くの波の音が不規則に混じり合った、**ノイズと沈黙が混在する「生の音」**である
嗅覚は覚醒した。都市のAIが徹底的に排除した、腐葉土の複雑な発酵臭、野生の獣がつけた不衛生な獣道の匂い、そして夜露に濡れた天然ハーブの苦い香り。それらが混沌として混じり合い、脳の深部に、都市の衛生的な環境では忘れ去られていた**『生きている実感』**を叩きつける。
シノノメは敢えて、脳波補正が適用されない状態で、その不快にも似た強い刺激を享受した。この**「不便」と「不完全」**こそが、彼がCivicの対価として求める最高の贅沢だった。
2. 手動操縦による「予測不能な移動」
午前七時。シノノメは、AIによる自動運転を完全に排除した**「全地形対応車(Terra-Manual)」**に乗り込んだ。この車は、AIの安全プロトコルに反して、すべての操縦系を人間の手に委ねるよう改造されている。
ヴィラから続く山道は、AIの効率計算によって整備されていない未舗装のままの道だ。ゴツゴツとした岩や、前夜の雨でできた水たまり、突如として視界を遮る霧の塊。すべての運転操作に、「転落」や「スタック」の予測不能なリスクが伴う。
「キリコ。今日の路面状況の**『リスク係数』**はいくつだ?」
シノノメが尋ねた。助手席に座るAIオブザーバーのキリコは、抑揚のない声で答える。
「路面のリスク係数は、AI自動運転プロトコルの許容範囲を5.8倍上回っています。人間による手動操縦の**事故予測確率は42%**です。」
「素晴らしい。その42%こそが、**『生の熱狂』**だ。」
シノノメはハンドルを握りしめた。車体が大きく傾き、タイヤが泥を跳ね上げる。その瞬間、彼の心拍は上がり、脳内にアドレナリンが放出される。これは、中環モールの無菌のパーソナルポッドでは絶対に得られない、**『生存本能の快感』**だった。
3. 大自然の映像的な美しさ
車が尾根に到達すると、霧が晴れ、眼下に広がる原生林の壮大な美しさが現れた。
AIが管理する東京の**「共栄庭園」の樹木は、光合成効率に基づいて均一に配置され、色彩も「リラックス波長」に合わせて最適化されていた。しかし、ここにあるのは、AIの意図を超越した色彩の暴力**だった。
濃密な生の緑。それは、光合成の効率を無視して複雑に絡み合った何百種類もの樹木によって構成されている。湿気を含んだ苔の鮮やかな緑、陽光を浴びた木の葉の光沢のある深い緑、そして腐りかけの切り株の鈍い緑。これらの色彩が、AIの管理から逃れたカオス的な美を生み出していた。
谷底には、AIが流量を調整していない**「野生の川」が流れていた。川の水は泥色に濁り、岩にぶつかって不規則な飛沫を上げる。その音は、都市の「ストレス緩和波長」とは異なり、鼓膜に予測不能な振動を伝えた。その水の力、予測不能な流れこそが、シノノメの「生」の感覚**を呼び覚ました。
視界の遠景には、手付かずの山々がそびえ立っている。その山肌には、人間が歩いた痕跡さえ見えない。その**「未踏の恐怖」と「圧倒的なスケール」が、シノノメの優越感と同時に畏敬の念**を呼び起こした。
「この自然は、誰にも**『共感』を要求しない。誰の『幸福指数』**にも奉仕しない。ただ、存在する。」
シノノメは、その予測不能な**「生の美」**を深く呼吸した。この大自然のリアルな美しさこそが、AIが創造した完璧なユートピアの裏側にある、最高貢献者だけが消費できる究極の特権だった。




