第8章 《知性化された協働 ― 記憶投資庁の倫理的監査》
正午。東京・共栄金融区。かつての銀行跡地に建つ「記憶投資庁(Ministry of Mnemonic Investment)」のオフィスフロアは、高層ビルではない、地上三階建ての透明な建築物だった。壁面には《記憶こそ、未来の資本である》という黄金の文字が、室内の光合成パネルの揺らぎに反射している。
内部のワークスペースは、**「ヒューマン・オートノミー・ゾーン(人間の自律領域)」**と呼ばれ、人間の創造性とAIの効率性が最適化されるよう設計されている。デスクはない。人々は、半透明の光るソファーや、植物と一体化した作業台で、ホログラムインターフェースを操作している。
彼らの仕事は、市民の経験・感情・知識をデータ化して「共有財」として提供する**「記憶投資」**の倫理的な監査である。
アキナは、光る作業台に向かい、複雑な倫理プロトコルを検証していた。彼女の隣には、チサがまるでゲームをするかのようにホログラムを操作している。
「アキナ、この仕事、やっぱり効率的で面白いよね。個人の記憶が、そのままみんなのCivicに変わるんだもん。私のこの**『非効率な幸福論』**の記憶データも、ちゃんと社会貢献になってるし!」
チサは笑顔で言った。彼女の脳波は、作業中に**「集団の貢献に対する快感」**を最大化するようAIによってわずかにブーストされていた。彼女にとって、労働は最高の「遊び」であり、「貢献」だった。
「ええ。チサ。あなたの**『感情経験データ』は、最も『共感教育(Subjective Exchange Learning)』に貢献しています。しかし、その記憶の『倫理的非整合性』の数値が、規定値を超えそうになっています。過去の『過剰な自己犠牲』**の記憶は、集団の健全性を損なう可能性があるので、再調整が必要です。」
アキナは、チサの貢献の裏側にある**倫理的な「リスク」を淡々と指摘した。彼女の業務は、チサのような「逸脱した善意」**が、システムの平衡を乱さないよう、常に監視することだった。
別の作業台では、圭太とフェリスが、一人の市民が提供した「失敗の記憶」の評価について議論していた。
「この**『ビジネス失敗の記憶』**は、Civic評価が低すぎないか、フェリス? 昔なら、失敗は最高の教材だ。次に成功するための、不確実な資本だった。」
圭太は、この社会が「失敗」を単なる**「非効率なデータ」**として低く評価することに、わずかな違和感を覚えていた。
「圭太様、現在のプロトコルでは、失敗は『貢献の総量』を低下させるため、評価は低く抑えられます。しかし、この記憶には**『失敗から立ち直るプロセス』のデータが含まれており、『精神回復時間短縮』に貢献するため、+15Civic**が加算されています。すべて合理的な計算です。」
フェリスは、失敗さえもが**「回復効率」という新たな形で評価される、このシステムの徹底した実利主義を代弁した。彼女にとって、ビジネスとは、いかに倫理的・感情的な「損をしないか」**というゲームだった。
隅の暗がり、光を遮る植物の陰で、後藤が一人、ホログラムの画面を凝視していた。彼女は、**「記憶の闇市場(ゼロ・エモート・コロシアムで取引された非同期データ)」**の追跡監査を担当していた。
「あ、あの……このデータ、『激しい後悔』と『純粋な怒り』……。AIの『倫理帯域』から完全に逸脱しています。でも、この記憶、なんだかすごく、熱いです。私、これをみんなで共有したら、もしかしたら、不快になるかもしれないけど、でも……」
後藤は、システムが削除した**「生の感情」のデータに触れ、「不快になる権利」**という、この社会で最も禁じられた刺激に、強い魅力を感じていた。
「後藤。そのデータは、『非同期ゾーン』からの逸脱データです。すぐに倫理削除プロトコルにかけなさい。この情報に触れることは、あなたの『共感指数』の安定性を脅かします。」
アキナの声が、警告として響いた。
人々は、個人の感情や経験を**「共有財」として提供することでCivicを得る。彼らの労働は、人類の知識と倫理を豊かにすることだった。しかし、その裏側では、「危険な感情」や「非効率な失敗」**が、常にシステムによって静かに篩にかけられ、削除されていた。
昼の光が、透明な建築群を透過する。その光の中で、ビジネスは完璧な倫理と合理性によって駆動されていた。
「すべての労働は貢献であり、すべての貢献は善である。」
誰もがそう信じていた。だが、後藤の端末に残る**「熱い怒り」**のデータだけが、この知性化された協働の場の、静かな倫理的静寂を、微かに侵食していた




