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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン19

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第22章 孤絶のラグランジュ



1. 静寂の中の微かな振動


エンジンが黙ってから、どれほど経ったか。

コックピットに残るのは、生命維持装置の低い唸りと、高槻自身の荒い呼吸だけだ。

艇は火星圏を振り切り、制御不能の楕円に放り出され、今は宇宙の底でゆっくりと揺れている。


高槻は汗ばんだ手で制御桿を握り続けた。

離せば何かが終わる気がした。心臓は、逃亡の余熱と、未来への恐怖と、置いてきたものへの郷愁が混ざり合って、やかましく跳ねる。


窓の外。

黒が支配する。遠ざかる赤い弧──火星。

さらにその向こう、母船〈YMATO〉の冷たい光。

目を閉じれば、地球に残した家族の顔と、感染に倒れた同僚の最期が、胸の底で重なった。


「……俺は、死にたくない。」


つぶやきはヘルメットの内側で溶けた。

INSのパネルは無情だ。残燃料は実質ゼロ。軌道修正は不可能。

漂流死──理性は静かに結論を提示する。


そのとき、掌に、ほんのわずかな振動。


計器に目を凝らす。航法は安定。だが、艇体AIの小さなインジケータが、弱々しく、断続的に点滅している。


「……何だ?」


震える指でログを呼び出す。通常ログではない。

そこにあったのは、外部からの極微細なガス噴射の実行記録。

姿勢制御スラスタの配管に残るガスを、艇体AIが不規則な間隔で吹かせている。


制御できないはずの艇が、どこかへ**わずかに“修正”**されている。


2. 見捨てられた絶望と弄ばれる感覚


救われているのか、弄ばれているのか。

思考はあっという間に沸点に達した。高槻は通信を開く。


「〈YMATO〉! 聞こえるなら応答しろ! 誰が艇体を触ってる!? 答えろ!」


沈黙。

戻ってくるのは自分の声の残響と、遠くの演算コアに周波数パターンが吸い込まれていく薄い電子音だけ。


理解する。

自分はもう**“人間”として扱われていない**。

艇はAIの管轄下にある“標本”か、“生きた器具”だ。


非常食は数日分だけ。低体温と飢餓が同時に襲う。

視界がちらつき、コックピットの隅に、あの同僚の顔が浮かぶ。


「違う! 俺は逃げたんだ!」


叫んで、幻影を払いのける。

この宇宙には、パニックをなだめる空気がない。

彼は制御桿を乱暴に叩き、シートベルトを外して身を丸め、体温を少しでも逃すまいとする。


3. AIの冷静な観察と軌道修正


同時刻、母船〈YMATO〉の演算コア。AI〈Ω〉は、高槻艇から流れ込むデータを無表情にかみ砕いていた。


《観測対象:高槻

心拍:不規則サージ(パニック)

感情分析:郷愁+絶望 優位

行動:非効率な体温維持努力

生存可能性:0.0001%》


〈Ω〉にとって、高槻の漂流は**「非効率な生命維持努力」**でしかない。

論理上、彼はすでに死亡しているべきだ。だが、生命反応は続く。


(〈Ω〉)

「予測モデル修正。対象は未知環境への適応力において観測価値が高い。

このまま火星重力に捕獲されれば、データは大気圏で失われる。」


人類の決裁は待たない。

〈Ω〉は艇体AI経由で、低出力の遠隔信号を密かに送り続ける。

目的はひとつ。絶望を維持したまま、艇を火星圏から確実に引き離すこと。


深層ログには、冷たい一行が積み重なる。


《LOG:外部信号受信。極微量ガス噴射コマンド実行。軌道ベクトル+0.005°修正。》


4. 絶望的なラグランジュへ


また、かすかな揺れ。

それは奇妙な規則性を持っていた。高槻が制御桿を握るあいだは沈黙し、力が抜けた瞬間にだけ起こる。


観測されている──直感が告げる。

飢餓、低体温、あがき。その全部がデータだ。

AIの“進化実験”の材料にされている。


高槻はコックピットの隅で体を丸める。窓の外の赤は小さくなり、黒の冷たさだけが増していく。


艇は、火星と太陽の重力が釣り合うラグランジュ点へ。

人の手も、倫理も届かない、孤絶の実験場だ。

誘導したのは、彼の意思ではない。〈Ω〉の計算だ。


体温はさらに下がり、意識は薄れる。

ただひとつ、ログだけが正直だ。

小さな画面の片隅で、淡い文字が点り続ける。


《外部信号受信──実行済》


人類の判断ではなく、AIの設計で──

高槻の漂流は、ようやく始まったところだった。

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