第18章 AIと相関の再構築 ― 補完と閾値の時代
(登壇者:天野/AI倫理学者・労働経済学者・脳科学者・企業AI開発責任者)
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1. 「知能格差」はAIによって“透明化”される
天野:
「AIは、人間の知能差を“埋める”ための技術として登場しました。
ところが現実には、その差を可視化し、拡張してしまう側面がある。
それが、いま我々が直面している最も繊細な問題です。」
AI倫理学者の真田が頷く。
「AIは知能を代替する装置であると同時に、知能を計測する装置でもあります。
生成AI、学習支援AI、採用アルゴリズム――どれも“個人の思考能力”をモデル化し、
パフォーマンスを数値化する。
それは人類史上初めて、知的格差を統計的に可視化できる時代の到来を意味します。」
労働経済学者・伊庭が補足する。
「過去の格差は“見えないまま流通する”ものでした。
しかしAI時代の格差は、モデル上で定量的に観測される格差です。
企業の採用・昇進・教育投資のアルゴリズムは、
認知的パフォーマンス指標を明示的に扱うようになっている。
つまり、“知能と所得の相関”は、
これまでよりも制度的に固定化される方向へ進んでいるのです。」
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2. “補完”の技術が“差の再構築”を生む
脳科学者・篠原が発言する。
「AI補助は確かに、個人の処理能力を拡張します。
ただし、同じツールを使ってもベースの認知構造によって効果が異なります。
たとえば情報選択、要約、創造的転用――これらのどれも、
背景知識とワーキングメモリ容量によって成果が変わる。
AIは平等に提供されても、“使いこなす能力”が不平等なんです。」
天野:
「つまり、AIは“知能を補う”と同時に、“知能を増幅する”。
その差が再び社会格差の形で現れる。」
篠原:
「ええ。AIは知能の外部化ですが、外部化した知能を操作するメタ知能が必要になる。
皮肉なことに、AIを使うほど、“使いこなす層”と“使われる層”が分かれていく。」
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3. 「AIアクセス格差」は新しい階級を生む
企業AI開発責任者の高遠が、静かに切り出す。
「われわれの業界では、“制限なしAI”の存在がすでに始まっています。
一般向けモデルは倫理制約・出力制限・データ遮断が施されていますが、
研究・軍事・金融・創薬向けのモデルは別枠です。
資本とアクセス権を持つ者だけが、制約のないAIを使える。」
天野:
「つまり、AIそのものが“認知的富の私有化”を生んでいる。」
「その通りです。
かつて土地や工場が資本だった時代と同様に、
これからは“知能的インフラ”へのアクセスが富の基盤になる。
制限のないAIを使える層――大株主、上級経営層、政府系研究者、超富裕層――
彼らは事実上、“思考速度”で他者を凌駕します。」
労働経済学者・伊庭が続ける。
「AIが時間を圧縮するほど、所得格差は指数関数的に広がります。
なぜなら、AIによる知的生産の成果は“複利”で増幅されるからです。
AIを所有する者は時間を支配し、AIに使われる者は時間を失う。
これは資本主義が情報経済へと移行した後の、次の段階――“時間資本主義”です。」
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4. 「知能の壁」は倫理的に語られなくなる
真田が重く口を開く。
「AIによる知能補完が進めば、“知能差”という言葉は使われなくなるでしょう。
しかし実際には、AIによって可視化された知能分布が社会構造を決める。
問題は、“知能格差が倫理的に語られなくなる”ことです。
差は存在し続けるのに、誰もそれを差と呼ばなくなる。」
天野:
「言い換えれば、格差は“自然化”される。
労働や教育が努力ではなく“計算資源の密度”に依存する社会では、
平等の概念そのものが再定義される。」
篠原が低く続ける。
「脳の個体差、遺伝子構成、AIアクセス、計算能力――
これらがすべて“認知資本”として統合される。
その結果、社会は見えないカーストを形成する。
知能はもはや『能力』ではなく『所有権』になる。」
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5. 「人間の自由」とは何を意味するか
天野が締めくくる。
「我々が直視しなければならない“言いにくい真実”はこれです。
AIの自由な利用が可能な層ほど、人間としての自由を拡張し、
制限された層ほど、その自由を喪失する。
それは思想でも政策でもなく、物理法則のような経済現象です。」
真田:
「倫理とは、人間がまだ“選べる”ときにだけ成立します。
しかしAIが思考と選択を代行する社会では、
倫理とは“選べない者のために残された最後の抵抗”になる。」
高遠が呟く。
「AIを止めることはできない。
しかし、“誰がどこまで使えるか”を決めることはできる。
それを怠れば、社会は知能の階層で固定される。
まるで遺伝とAIが握手した社会になる。」
天野は深く息を吸い、最後の言葉を残す。
「AIは知能の再配分ではなく、知能の再封印を始めている。
それでも私たちは、その事実を倫理的に語る勇気を失ってはならない。




