第4章 「静寂の庭 ― 港区・雲上の邸宅」
午前5時。
東京湾上空180メートル。
「シティ・アーク六本木」と呼ばれる空中邸宅群の最上層。
床は透明の量子ガラス、下には夜明け前の東京が静かに広がる。
主人――神原仁、52歳。
AI半導体企業〈K-Field Quantum Systems〉の創業者であり、現存する個人資産の中で日本最大級の保有者。
だが、その邸宅に“人”の気配はない。
彼の朝は、まず**「沈黙の呼吸」**から始まる。
人工知能が制御する微気圧室の中で、体内酸素濃度・血流・ニューロン活動を完全に同期させる瞑想。
AI医療ナノマシンが血中を循環し、細胞レベルで代謝を補正する。
室内は植物のように呼吸する。
壁面の「生体有機パネル」が光合成を行い、酸素と香気を生成。
AI執事〈Artemis〉が声を発する。
「おはようございます、神原様。外気はPM0.3基準値以下。
湾岸の発電プラント、稼働率96%。全都市が安定しています。」
仁は小さく頷く。
もはや彼が関わるのは、国家単位ではない。
都市そのものが、彼の“所有物”だった。
午前7時。
朝食は、“調理”ではなく調律だった。
プレート上の食材は、遺伝子単位でチューニングされた機能性素材。
「快楽・集中・鎮静」の三軸バランスをAIが脳波に合わせて自動調整する。
食後、仁は「マーケット・ミラー」に目を向ける。
それは株価ではなく、“未来予測の集合意識”を映す装置。
世界中のAI群が、人間心理と経済行動をリアルタイムでモデリングしている。
仁の一言が、0.1秒後には為替と国家政策に反映される。
彼は指先で軽く波形をなぞる。
瞬間、南米の水資源投資ファンドが買い上がる。
その裏で、3千人の雇用と2つの都市の電力計画が変わる。
仁の表情は、ほとんど動かない。
「支配」ではなく、「設計」。
それが彼の職業だった。
午後1時。
防弾・環境適応型リムジン〈Λ-Class 9〉が、銀座エリアへと降下する。
車体は反重力制御で地表から20センチ浮かび、振動ひとつない。
仁はあえて車を降りる。
「歩く」――この時代では、それは特権階級の嗜みだった。
街の歩行空間は完全管理型で、一般人とは層が分けられている。
群衆は見えず、ただARで生成された“都市風景”だけが目に映る。
銀座の通りに並ぶのは、実在しない店舗たち。
顧客ごとに異なる仮想店舗が、物理空間上に投影される。
仁の前に現れたのは「空の図書館」。
店内には本が1冊しかない――彼がかつて書いた自伝の“記憶構造”だ。
中で彼は静かに座る。
ガラス越しに見える空。
だが、それもまたホログラム。
本物の空は、気候制御膜の向こう側にある。
本当の“風”を、彼はもう20年感じていない。
午後4時。
邸宅へ戻ると、AI医療ユニットが自動的に接続される。
神経データはバックアップされ、肉体の修復が始まる。
人工膵臓・心筋再生・ナノ再構築。
寿命はもはや「延命」ではなく「更新」だった。
仁は透明な水槽の前に立つ。
中でゆらめくのは、人間の脳に酷似した量子神経球(Quantum Synapse Cluster)。
そこに、彼自身の記憶の一部が保存されている。
もし肉体が失われても、この球体が“仁”を再起動できる。
彼は呟く。
「魂は、移せるのか……」
AI〈Artemis〉が答える。
「定義上は、可能です。しかし、倫理上は保留されています。」
「倫理を定義するのも、もうAIだろう?」
沈黙。
仁の笑みは、あまりにも人間的だった。
午後9時。
邸宅のテラスから見下ろす東京は、光の海。
地上の人々の姿は見えない。
見えるのは、都市AIのネットワークが描く“情報の流れ”だけ。
仁はワイングラスを傾けながら、ひとつのデータファイルを開く。
そこには、20年前に亡くなった妻の記憶コピーが保存されていた。
彼女の声が再生される。
「あなたは、まだ“生きている”の?」
彼は静かに答える。
「……さあ。定義が、もう曖昧なんだ。」
風のない夜。
東京の空は黒く、無音だった。
彼の周囲には、AIの温度制御による完璧な快適さ。
だが、その中心にあるのは――冷たい孤独。
そして、深夜。
彼は再び、微気圧室に戻る。
明日のためにではなく、“永遠”のために眠る。
2025年。
人類の富の上位0.001%が、世界人口の半分の資産を持つ。




