第2章 「2025年の朝」
午前5時45分。
都心マンションの壁が淡い光で満たされる。窓ではない。壁そのものが、空の色を模した「環境投影壁(EnviroWall)」だ。
外気温は摂氏34度、湿度78%。だが部屋の中は25度に保たれ、空調はAIが居住者の睡眠中の呼吸パターンから最適化している。
佐野啓介、46歳。
総合情報企業「メディア・シンジケート」の営業統括課長。
出社率は週に2回、残りは全て「ハイブリッド出勤」。今日はその2回のうちの1日だ。
ベッドサイドの卓上AI〈Aura-H〉が声をかける。
「おはようございます。啓介さん。昨夜の睡眠効率は87%。脳波は安定しています。
ただし、今朝の血糖値が少し高めです。朝食に糖質抑制モードを推奨します。」
啓介は頷きながら立ち上がる。
リビングに入ると、床下から薄い香りが立ち上った。豆のDNAパターンから再現された「ブルーマウンテン2050」。
かつては高価だったコーヒーも、今では合成培養によって一般家庭でも抽出できる。
窓の外――ではなく、壁のAR映像に映るのは、リアルタイムの東京湾岸。
水素発電プラントの白い煙が、朝焼けを透かしている。
空には小型エアモビリティ(AAV)が編隊を組んで通勤者を運んでいた。
午前7時30分。
啓介は“出勤”のために自宅の屋上ポートへ上がる。
そこには会社契約の「通勤型ドローンタクシー」が待機していた。
機体の座席に腰を下ろすと、自動で安全ベルトが締まり、ディスプレイに「乗車確認:佐野啓介/経路:品川ノード」と表示される。
機体が上昇する。
地上はもう、ほとんど歩行者のための空間ではなくなっていた。
自動走行EV、宅配ロボ、救急ドローン。
高架層には「動く歩道」ではなく「自動通勤カプセル」が流れていく。
機体内のスクリーンでは、同僚たちとの朝ミーティングが始まる。
会話の相手は実体ではない――AIアバターが本人の声・表情・思考傾向をリアルタイム模倣する「代理接続型会議(Proxy Meet)」だ。
相手が人間かAIかを区別できないまま、会話は効率的に進む。
彼は気づかないふりをしている。
すでにチームの一人――“松永”は半年前に退職しており、AIがその役を代理していることを。
正午。
オフィスは「品川ノード・第3スフィア」。
物理的な建物だが、内部は全てAR空間で再構成されている。
壁は光子ディスプレイ、机は立体投影、資料はホログラム。
社員たちはヘッドセットも装着していない。網膜投影型ARコンタクトがそれを担っている。
啓介の仕事は、企業向けの「情報同化広告」の営業。
AIが個人の嗜好・記憶・心理傾向を解析し、広告そのものを“その人の記憶に自然に挿入する”という新型モデルだ。
法的には「許諾型拡張記憶支援」。しかし実態は――“感情の買収”に近い。
啓介はランチの代わりに、栄養カプセルを1粒飲み込む。
テーブルに置かれたスマートグラスのディスプレイに、妻からのメッセージが届く。
〈娘が志望校を変えたいって。相談できる?〉
返信はAIが自動生成した。「もちろん、夜話そう」。
彼はそれを確認すらしない。
午後9時。
帰宅するころには、街全体が「光膜(Photon Canopy)」に覆われていた。
これは大気中の粒子汚染と紫外線を遮断する都市規模のスクリーン。
だが皮肉にも、その下では人々の表情がいっそう無機的に見える。
家に戻ると、AIが照明を落とし、室温を1度下げる。
啓介は靴を脱ぎ、床に座り込む。
壁には妻と娘の姿――だが、それは今日の夕方、AIが自動生成した「仮想家庭記録」だ。
実際の二人は地方の気候避難都市・高山シティに住んでいる。
東京での生活は、彼一人だけが続けていた。
彼は声に出さずに呟く。
「……この街は、生きるというより、保存されてるな。」
壁のスクリーンに映るのは、湾岸の夜景。
風も匂いもない、完璧に静かな“東京”。
その中に、彼の心だけが、かすかにノイズを立てていた。
午前0時。
就寝モードに入る。
AIが夢を分析し、翌日の「感情プロファイル」を調整する。
睡眠学習の内容は「営業成功率向上のための会話トーンモデル」。
意識が沈む直前、彼は一瞬、壁の映像に「昔の東京の夜景」を呼び出す。
ネオンの光、雑踏、声。
そのすべてが“ノスタルジア・データベース”から生成された幻影だ。
彼の瞼の裏で、かつての渋谷スクランブルが、ほんの数秒だけ蘇る。
そして、また次の日が始まる。




