第107章 Ω-TERRA セッション#91《共感の誕生》
〔画面:暗闇。微かな風音。やがて、青白い光に照らされる洞窟。〕
Astra-Core(AI音声):「時代:およそ40万年前。観測種:ホモ・ハイデルベルゲンシス。
記録範囲:アタプエルカ洞窟群。セッション開始。」
野田「……静か。音が全部、吸い込まれるみたい。」
富沢「寒そうですね……。でも見てください、あそこ――火がありますよ。」
〔洞窟の奥。火の周りに、十数体の影。ひとつの遺体が横たえられ、その周囲に石が置かれている。〕
亀田「……これ、埋めてる? まさか……葬式?」
部長「その“まさか”が始まりなんだ。
人類が“死”を理解した瞬間。埋葬の最古級痕跡だ。」
副部長「死体を放置せず、意図的に埋める。
それは“終わりを意識する脳”ができた証拠。
前頭前野と扁桃体の共同作業です。」
重松「つまり、“感情”と“思考”が結びついたということですね。」
富沢「……顔、撫でてます。優しく。」
〔一体の雌が遺体の顔に触れる。手のひらが血を拭うように滑る。〕
野田「その仕草、覚えてる。誰かが泣くとき、母がよくそうした。」
亀田「……この頃もう“母性”があったんだな。」
部長「母性というより、“他者の苦しみを自分として感じる”力。
共感神経、つまりミラーニューロンの発火だ。
“共感”は文化の根になる。」
〔子どもが壁に赤い手形を残す。火の明滅でそれが動いて見える。〕
副部長「見てください。壁に印を残してる。
赤土と炭を混ぜた顔料ですね。
記号行動の最初の形です。」
野田「“生きた証”……?」
部長「そう。“存在の記録”。
文字が生まれる何十万年も前に、人はもう“自分を残そう”としていた。」
亀田「まるで、SNSの原型みたいなもんだな。」
富沢(笑いながら)「いいねもハートもないですけどね。」
重松「でも、“誰かに見てほしい”という気持ちは同じ。
社会的認知欲求は、すでにここにあります。」
〔狩りの場面。雪原に並ぶハイデルベルク人たち。音を立てず、目で合図を交わす。〕
Astra-Core:「協調行動パターン検出。個体間シンクロ率0.92。
音声による指令は確認されず。視線伝達行動を記録。」
富沢「言葉がなくても、通じてる……。
目で、呼吸で、タイミングで。」
部長「“共有注意”です。言語の基礎となる認知構造。
脳の側頭葉が、他者の意図を読むために働いている。」
亀田「音じゃなく、空気で会話してるんだな。」
野田「それ、すごくわかる。
手品サークルで息を合わせるときも、
“声にしない呼吸”で合う瞬間がある。」
副部長「ええ、それと同じです。
意識のネットワークが形成されつつある状態。
“社会的心”の誕生です。」
〔場面転換。洞窟の夜。老人が火のそばで介護されている。歯がなく、柔らかくした肉を与えられている。〕
富沢「あの人……食べてもらってる?」
重松「歯がほとんど残ってませんね。
でも、群れの中で生かされている。
“弱者を支える”社会の成立です。」
部長「生存だけじゃない。“生かす”という思想が生まれた。
倫理の原型ですよ。」
亀田「……なんか、俺たちより優しいじゃん。」
野田(静かに)「たぶん、“優しさ”って、ここで生まれたんだね。」
〔火が揺れ、子どもが笑う。誰かが手を叩く。笑いが伝染する。〕
副部長「笑い反応を確認。恐怖緩和の神経活動。
笑いは“生理的防御反応”でもあり、“社会的接着剤”でもあります。」
部長「笑うことで、恐怖を共有し、無力感を分け合える。
それが、文化の始まりだ。」
富沢「笑いも、火も、死も……全部、繋がってるんですね。」
野田「うん。
生きるって、“つながる”ってことかもしれない。」
〔映像:洞窟の壁。無数の手形。
そのうちの一つが光に重なり、現代人の手の影が重なる。〕
Astra-Core:「セッション#91終了。
記録名:《共感の誕生》。次観測:ホモ・サピエンス・初期芸術行動。」
野田(小さく)「……彼らが“感じた”こと、ちゃんと伝わってる気がする。」
部長「それが、記憶の連鎖です。
私たちの脳も、あの炎の続きにある。」
〔画面フェードアウト。焚き火の残光だけがゆらめく。〕
「共感――それは、知性よりも古い“人間”の証だった。」