第101章 Ω-TERRA/セッション#53《群れの記憶 ― アウストラロピテクスの午後》
〔転送完了。空の色が琥珀に変わる。草の香り。熱がやわらぐ。〕
副部長「……ここ、涼しい。空気が柔らかい。」
Astra-Core「時代:約350万年前。地点:エチオピア・アワシュ流域。
アウストラロピテクス・アファレンシス個体群、活動範囲内。」
亀田「“ルーシー”の時代、ってことね。」
彼女は腰に手を当てて空を見上げる。
「森と草原が混ざってる……動物園みたい。」
富沢「あっ、いた! あれ群れ?」
丘の上。背丈およそ1.2メートルの影が五つ。
体毛は薄く、腕よりも脚が長い。
光を受けて胸郭が広がり、背筋が伸びていた。
――確かに「歩いている」。
重松「骨盤角度54度。大腿骨の内傾、明確。完全な二足歩行です。」
目は科学者のように冷静だが、声が少し震えていた。
「これが“ヒトの歩き方”の始まり。」
野田「……音がしますね。足音。リズムがある。」
彼女が耳をすますと、
草を踏む音が――規則的に、まるで太鼓のように――響く。
リズムの中に「群れ」の存在があった。
部長「歩行は社会行動だ。互いの距離を保ち、同じ速さで動く。
それが“協調”の原型になる。」
富沢「じゃあ、今うちらが並んで歩いてるのも、進化の名残ってわけ?」
亀田「そりゃそうよ。通勤電車も、立って動く“群れ”みたいなもんだわ。」
〔丘の陰で、雌が何かを拾う。石だ。〕
彼女は両手でそれを持ち上げ、地面に落ちた木の実を叩いた。
乾いた音が空気を裂く。
野田「……今、叩きました。」
重松「偶然じゃない。角度が一定だ。
筋収縮パターン、目的動作――“意図”がある。」
副部長「オルドワン以前の段階だな。自然石を使った最初の道具行動。」
部長「つまり、“考える手”の誕生だ。」
〔観測者たちの右手に微かな振動。
Ω-TERRAが共振を送っている。〕
Astra-Core「観測者群の手指運動野、対象個体と同期。
〈掴む〉信号を転写。」
野田は思わず自分の手を見た。
指が微かに動く。
「……私の中にも、あの“掴む”がある。」
富沢「手品のトリック、これで失敗しなくなるかも。」
亀田「馬鹿言ってないで、見なさいよ。子どもがいる。」
〔雌の足元で、小さな個体が転ぶ。
砂を払い、立ち上がる。母はそっと支える。〕
野田「支えてる……。優しい。」
部長「この時代に“育児行動”が確立した。
長期の子育てが、社会性を発達させたんだ。」
重松「それにしても……表情が豊かだ。
口角を上げてる。もしかして“笑ってる”?」
副部長「顔面筋群の発達は、音声言語の前提。
表情が“感情の符号”になった段階だ。」
富沢「笑うために顔が進化したってこと?
……いいじゃん、人間らしい理由。」
〔陽が傾き、金色の光が草原を染める。
群れは一斉に立ち止まり、地平線を見つめている。〕
山本「何を見てるんだろう……。」
野田「風の音。……たぶん、嵐が来ます。」
Astra-Core「大気圧低下確認。風速上昇。
観測者保護フィールド展開。」
砂が舞い、視界が白くかすむ。
群れは寄り添い、腕を絡めるように体を寄せ合う。
母が子を抱きしめ、雄が外側に立って風を受ける。
その姿は、どこか“人間の家族”に似ていた。
亀田「守ってる……ちゃんと“守ってる”のね。」
富沢「うちらと変わらない。
――いや、うちらが“彼らの続き”なんだ。」
部長「進化とは、記憶の形を変えることだ。
立ち、群れ、支え合う。そのすべてが、まだ私たちの中にある。」
〔嵐が過ぎる。草が静かに揺れる。〕
野田(小声で)「……最初の社会。最初の優しさ。」
Astra-Core「セッション記録完了。
タイトル:〈群れの記憶〉。
次段階、ホモ・ハビリス期(器用な人)の演算準備。」
風が止む。
雌が再び石を拾い、子どもに渡す。
子はそれを持ち、空にかざす。
夕陽が反射し、金色の光が観測者たちの頬を照らした。
その瞬間――野田は微笑んだ。
「火より先に、光はあったんですね。