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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17

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専門講義 遺伝子は足かせか、錨(いかり)か》

 



教室に静けさが降りる。窓の外で風が鳴り、黒板の前に立つ佐伯教授の影が揺れた。


佐伯教授:

では、きみの問い――“文化が遺伝を追い越したとき、遺伝子は足かせか?”を、三層の模型で見ていこう。図は描かない。頭の中に三つの装置を思い描いてほしい。第一装置は神経構造、第二装置は集団進化、第三装置はAI共進化。三つを縦に積み重ね、下から上へ、そして上から下へ信号が往還する塔を想像するんだ。


Ⅰ.神経構造の層――“旧石器OS”に対するパッチ


佐伯教授:

最下段の装置は脳だ。皮質の折り畳み、視覚野の地図、ドーパミン報酬系――これらは数十万年単位でしか変わらない設計図に基づいている。いわば「旧石器版のOS」。飢餓に敏感、糖と脂に報酬、近距離の顔や声に強く反応、群れの規模は百数十人が快適……そういう“仕様”が深層に焼き込まれている。


ところが現実の環境は、数十年単位で塗り替わる。膨大な情報、瞬時の刺激、果てのない時間割。ここで起こるのが非同期だ。旧OSは、“今すぐ得られる少量の確実な報酬”に最適化されているのに、文化は“後で得られる大量の抽象的報酬”を提示する。結果として、衝動と計画の衝突が発生する。


では脳は壊れるのか? そうではない。ここで登場するのが、文化的パッチだ。読み書き、数概念、時間割、儀礼、規範、そして物語。これらは神経回路の可塑性を利用してOSの上に“仮想レイヤ”を重ねる。海馬は抽象語彙を地図化し、前頭前野は「もしも」の分岐を保持し、帯状回は衝動の逸脱を検知する。神経生理は根本的には古いままだが、学習というエピジェネティックな微調整でパスの重み付けが変わり、旧OSに行動ソフトが走る。


では“足かせ”はどこに残る? 報酬系の閾値だ。短期刺激への過剰反応、相互監視への敏感さ、地位シグナルへの執着。これは容易に消えない。ゆえに文化は禁欲・節制・間接化という“補助輪”で制動をかけ続ける。結論を一行で言おう。**神経構造における遺伝子は、足かせであり同時に錨だ。**暴走を防ぐ重しでもあり、旋回を鈍らせる制限でもある。文化はその上に橋を架ける――橋は軽やかだが、橋脚は重く、動かしがたい。


Ⅱ.集団進化の層――分化圧と統合圧の綱引き


佐伯教授:

塔の中段に上がろう。ここは群れと集団の層だ。進化は個体だけでなく、集団構造を通して進む。分化を促す力を分化圧、混合を促す力を統合圧と呼ぼう。地理的隔離、環境差、偶然の漂移は分化圧。婚姻の交換、交易、共有の物語は統合圧。ヒトの歴史は、この二つの綱引きの記録だ。


旧石器の長い時間、分化圧は着実に働いた。言語方言が枝分かれし、装身具の意匠が連鎖的に変化し、狩猟採集の範囲に合わせて遺伝周波がゆっくり偏る。本来なら、数万年の隔離が続けば、ヒト属の中で新しい枝が太っていっただろう。


しかし、ここで統合圧が異常に強くなる。沿岸回廊の移動、内陸の河川交易、婚姻のネットワーク、捕鯨や農耕の技術パッケージ化、文字と貨幣と法。これらは、“隔離の時間”を短縮する。分岐しかけた枝が、世代数十で再接続してしまう。こうして、遺伝子の分化は進みにくくなり、かわりに文化系統樹が激しく枝を増やす。宗教、音楽、料理、制度――遺伝ではなく意味で多様化し、それを翻訳装置(通詞・通貨・慣行)がゆるやかに統合する。


では“足かせ”はどこか? 繁殖のルールだ。近親回避、同類親和、敵味方の識別、この三つは深い層にある。統合圧が強まり過ぎれば、これらの“古い安全装置”と衝突が起こる。排外と普遍の波が繰り返す振動だ。ここでも遺伝子はブレーカーとして働く。分化圧が完全には消えないおかげで、集団は均質化しすぎない。その不均質が、アイデアの再結合や創発の“火花”を生み、文明の再加速につながる。つまり集団進化の層でも、遺伝子は制限であり資源だ。枝分かれの芽を完全には摘まず、しかし過剰分裂は抑える。この揺れ幅が、ヒトを“単型属だが異様に創発的”に保っている。


Ⅲ.AI共進化の層――“外在化された前頭前野”と速度の管理


佐伯教授:

塔の最上段に上がる。ここは外在化された知能の層だ。記憶は粘土板から紙へ、紙から半導体へ。計算は指からアバカスへ、アバカスから機械へ、機械からモデルへ。わたしたちは前頭前野の一部を外部に移した。この層の時間は、月から週のスパンで動く。人類史の中で最も速いメトロノームだ。


AIは予測と設計を分担する。旧OSが苦手な長期・高次・多変量の統合を肩代わりし、意志決定の負荷を軽くする。これは明らかに“足かせ”を外す力だ。だが同時に、報酬系のハックと表裏だ。注意は引き寄せられ、選好は微細に調整され、社会的認可の信号が即時フィードバックされる。旧OSの閾値は、刻一刻と再設定され、自制の予算が消耗する。ここで必要なのは、速度の管理だ。上段(AI)のテンポが中段(社会)と下段(神経)に同期する領域を設計する――これが文明工学の核心になる。


具体像を言葉で描こう。巨大な水車が三段連なる。最下段は重く、ゆっくり回る(神経)。中段は季節風で回転が上下(集団・制度)。最上段は電動モーターで瞬時に回る(AI)。三つの軸が固結合だと、最上段の激しい回転が下段の軸を折る。だから可変クラッチが要る。教育、休止、間欠接続、説明可能性、責任の配分――これらがクラッチだ。必要なときだけ力を伝え、不要なときは遊びを作る。すると、“足かせ”だった下段の慣性は、暴走抑制のフライホイールとして役立つ。旧OSの遅さは、速すぎる上段を落ち着かせるブレーキにもなるのだ。


リョウ:

つまり、遺伝子は“完全に外して捨てる足かせ”ではなく、速度設計の基準錨になる。速い層に合わせて錨を切れば、船は軽くなるが、嵐で転覆しやすくもなる。


佐伯教授:

その比喩は見事だ。さらに言えば、AIがもたらすのは群知能の新しい形でもある。人と人の統合圧は、言語と制度で繋がっていた。これからは、モデルとプロトコルで繋がる。翻訳は等時化し、計画は共同編集され、仮説は即時検証される。分化圧はアイデアの多様性から、統合圧はモデルの相互運用性から生じる。両者のバランスを取るために、下段の“遺伝的ノイズ”――個体差・気質・注意の揺れ――はむしろ価値になる。完全整流された均質社会は脆い。少し乱れた系がしなやかだ。遺伝子の“足かせ”は、創発のゆらぎを供給する。


まとめ――足かせか、錨か、それともメトロノームか


佐伯教授:

三層をもう一度、言葉で束ねよう。神経の層では、遺伝子は衝動を制限する足かせであり、行動の底流を保つ錨でもある。集団の層では、遺伝子は分化圧という抵抗であり、過剰統合を防ぐ保険でもある。AI共進化の層では、遺伝子は速度を測るメトロノームだ。テンポが合わないとき、我々はクラッチを操作し、教育や休止や制度で同期領域を作る。


リョウ:

結局、“遺伝子=足かせ”は半分正しい。けれど、もう半分は“安全装置であり、創発のノイズ源であり、速度基準”でもある。


佐伯教授:

その両義性を見失わないことだ。足かせを外せば速く走れる。だが、速さはいつでも善ではない。地球史は“速すぎる転調”に脆い。ヒトは、遺伝の重さと文化の軽さと技術の速さを同じ楽譜の上で指揮しなければならない。遺伝子は、忘れてはならない古い拍子を刻み続けている。そこに新しい旋律を重ねるのが、わたしたちの仕事だ。


教授はチョークを置き、静かに言った。

「足かせを賢く使えば、それは錨になる。錨を忘れなければ、速さは音楽になる。」


窓の外、風が少しおだやかになった。三つの装置の塔は、言葉の中でしずかに回転をそろえ、夜の研究室に微かな律動を残した。

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