第80章 《最初の生命 ― 原始細胞の誕生》
Scene 1 3:00–3:15(40.0–39.5億年前)/息をする惑星
Ω-TERRAの視界が、深海の裂け目を映す。
海底から硫黄を含んだ煙が上がり、周囲に淡い金色の霧が漂っている。
その縁には、硫化物を酸化する**微小な細菌群――原始的な“硫黄細菌”**のコロニーが群生していた。
細胞一つひとつは直径一マイクロメートルに満たない。
だが顕微鏡を通せば、それらは規則的な脈動を示している。
チサがモニター越しに息を呑む。
「代謝が始まった……地球が息をしてる。」
泡の中で硫化水素が酸化され、水とエネルギーが生まれる。
スノーレンが淡々と解析を報告する。
「ATP類似物質の合成を確認。非酵素的リン酸転移反応進行中。」
圭太はカメラを構えながら低く呟く。
「もう“動いてる”な。生きるための化学じゃなく、生きることそのものだ。」
夏樹が微笑む。「この惑星、ほんとに音があるみたい。波じゃない、呼吸の音。」
黒煙の中で立ち上る泡が、まるで肺胞のようにリズムを刻んでいた。
Scene 2 3:15–3:30(39.5–39.0億年前)/複製という衝動
温度は摂氏七〇度。高温にもかかわらず、黒煙の縁では不思議な生命構造が成立していた。
タッキーが目を輝かせる。
「RNA鎖の複製速度、指数的上昇。――これ、自己増殖してる。」
AIの声が重なる。
Astra-Core:「触媒中心構造を持たないRNA複製反応を検出。平均延長速度、毎秒二塩基。」
チサ:「酵素がなくても、環境そのものが“触媒”になってるのね。」
スノーレン:「Mg²⁺濃度とpH勾配が自然のポリメラーゼとして機能。」
圭太がデータを確認する。「一本のRNA鎖がもう一つを呼び寄せる……まるで言葉が言葉を増やすみたいだ。」
夏樹:「それが“遺伝”の原型か。」
タッキー:「そうだ。再現性――それはもう、記憶の萌芽だ。」
硫化鉄の壁に光る無数の微点。
彼らはその光を見ながら、地球が“自己を語り始めた瞬間”に立ち会っていた。
Scene 3 3:30–3:40(39.0–38.7億年前)/記憶のはじまり
圭太がログを取る。
「反応データ保存。RNA鎖数、前回比一・八倍。これが“記憶”の始まりか。」
AIが応じる。
Astra-Core:「記憶定義:構造の再現による情報の保持。――適用可。」
スノーレン:「その定義は、生命だけのものではない。物理もまた記憶する。」
チサ:「でもね、生命は“忘れない”ように構造を変える。――それが違い。」
夏樹が目を閉じる。「忘れない……って、まだ何も感じてない存在なのに。」
タッキー:「感じなくても、生き残ろうとする。環境の中で最も確率が高い形へ。」
チサ:「それが“自然選択”の最初の影よ。」
スノーレン:「アルゴリズムの進化に近い。冗長性が情報の生存率を上げる。」
圭太:「でも、アルゴリズムは祈らない。――こいつらは、祈ってる気がするんだ。」
夏樹が静かに笑う。「それ、きっと“希望”の原型だよ。」
Scene 4 3:40–3:52(38.7–38.4億年前)/理由なき存在
海底の視界が広がる。岩肌に沿って淡い緑の膜が揺れていた。
直径数ミリの泡――内部にはRNAと脂質膜が共存している。
そのひとつが分裂し、二つの泡が滑らかに離れていく。
チサ:「自己分裂、確認。」
タッキー:「エネルギー入力なしで分裂してる。内圧と温度変動だけで……」
夏樹がそっと呟く。「ここに“生きる理由”なんて、まだないのね。」
圭太:「理由がなくても、生きてる。」
チサ:「意味がないからこそ、強いのかもしれない。」
スノーレン:「観測者定義:“目的”は情報の余剰表現にすぎない。――存在自体が結果である。」
沈黙。
ただ、海流の音と、泡が割れる小さな音。
それが、この惑星で初めて鳴った生命の拍動だった。
Scene 5 3:52–4:00(38.4–38.0億年前)/生命の定義
暗い海の底。
スノーレンの声が静かに響く。
「定義:生命とは、熱ゆらぎを構造に変える行為。」
Astra-Coreが応答する。「承認。Ω-TERRA生体定義を暫定更新。」
タッキー:「熱ゆらぎ……つまり、偶然を形にする力か。」
チサ:「そう、熱のノイズを“秩序”に翻訳する存在。」
夏樹:「じゃあ、地球そのものが生きてるって言える?」
スノーレン:「惑星スケールの自己組織化を観測。論理的整合あり。」
圭太:「俺たちはその中の一つのゆらぎか。」
夏樹:「でも、そのゆらぎが“心”を生む日が来る。」
海面に近い層で、太陽の微光が届き始めていた。
赤い光が水中に差し込み、泡膜が淡く輝く。
Astra-Coreが最後のログを記録する。
「反応系安定。生物学的自己複製、連続三千サイクル突破。」
チサが笑う。「誕生を確認。これが――最初の生命。」
圭太:「音も匂いもないけど、確かに“生まれた”な。」
夏樹:「人間がここまで辿るなんて、地球も驚いてるよ。」
そして彼らは黙り込んだ。
四十億年前の海の底で、
青白い光が――確かに呼吸していた。