第74章 ヴァーチャル地球 ― Virtual Paleo Project
2048年3月、《Ω-TERRA Reconstruction》が始動した。
地球深部探査船〈アステリオン〉で取得された装置データ、国際地質試料ネットワーク(IGSN)に登録された岩石コアデータ、
そして衛星群《GaiaNet》が観測した地球全磁場モデル――それらが一括して、AI統合基盤《Astra-Core》に接続された。
目的は明確だった。
「仮想的な過去の地球を、物理的整合性を保ったまま再現する」。
Ω-TERRAの初期段階では、相模トラフ装置から抽出されたQ-Latticeデータを中核とし、
その外縁に既存の地質・天文学・大気化学データベースを多層的に結合。
それぞれのデータは、時間・空間・物理条件という3軸上に再配置され、
AIはそれらを自己整合的に結び直す「時空統合マッピング(Spatiotemporal Alignment)」を実施した。
通常のシミュレーションとは異なり、このモデルは**観測的実在(Observed Reality)**の延長線上で生成される。
入力データに欠損や矛盾がある場合は、AIがそれを予測補間するのではなく、
再現可能な最小限の過去構造を再計算する。
この原理により、Ω-TERRAは単なる可視化プロジェクトではなく、
地球史を“再演算”する実験装置となった。
統合構造
Ω-TERRAの基盤構成は三層からなる。
第1層:物理層(Physical Kernel)
地殻力学・大気流体・磁場分布を連立する多変量方程式系。
入力パラメータは装置格子データと一致しており、地球史上の任意時点を初期条件として再構成できる。
この層の演算は、地球外拠点「CNS-Luna」および地球軌道上演算衛星群《Synchronous Array》によって分散処理される。
第2層:情報層(Informational Manifold)
装置の量子格子内に保持されていた“歴史データ”を直接マッピング。
AIはこれを、情報熱力学の定義に基づく**エントロピー最小経路(Minimum Entropic Path)**で展開。
この層では、時間そのものが変数として扱われ、演算空間上で「時流の向き」が可逆的に再生される。
第3層:体験層(Cognitive Interface)
参加者はこの層を通じ、再構成地球の大気圧、温度、音響、化学ポテンシャルをVR-AR複合感覚システムで体験する。
入力デバイスは生理センサー群と直接接続され、呼吸・皮膚電位・眼球運動がリアルタイムで反映される。
その結果、観測者は単なる視覚的再現を超え、
当時の地球環境を生理的フィードバックを伴って観測できる。
初期再現:アーキアン(約38億年前)
最初に選定された再構成対象は、地球史の初期――アーキアン(Archean)。
この時代の記録は、装置内部の最下層格子に保存されており、
解析では高温・高圧・低酸素環境に対応する磁気配列が確認された。
再現開始から48時間後、Ω-TERRAは安定演算状態に到達。
演算空間内の温度分布は地球半径比で0.8倍に圧縮され、
当時の地球大気は水蒸気とメタンを主成分とする濃密な層構造として再現された。
研究者の一人、凪博士はVRブリーフィングルームでヘッドマウントを装着し、
初の“没入観測”に参加した。
視界の中、空は橙から深紅へと変化し、地平線には黒い海が広がっている。
水面温度は摂氏85度、圧力は現在の大気の1.6倍。
表層には鉄イオンが大量に溶解し、光の散乱はほとんど赤外域に集中している。
太陽は厚い雲越しに拡散し、直接の影を作らない。
風速計データは平均風速9m/s、湿度99.8%。
それは風というより、流体のゆっくりとした移動だった。
凪博士の生体デバイスが、皮膚温度と皮膚電位の上昇を記録した。
体験システムは環境データを人体感覚へ変換し、
呼吸時には硫化水素を模した低濃度刺激ガスが空気中に散布された。
博士は短く息を吸い、
「……私たちはいま、38億年前の風の中にいる」と記録装置に残した。
その発話はAIログに記録され、
同時刻、Astra-Coreは**「観測者による初回感覚同期」**のフラグを立てた。
観測データと物理的一致
Ω-TERRAの再構成環境では、物理定数の挙動が現実の地球観測データと整合しているか、常時検証が行われる。
このため、各体験セッション中は同時に地球磁場・重力変動・潮汐データがリアルタイムで比較される。
初期運転中、観測衛星《GaiaNet-12》が太平洋赤道域で**微小な重力異常(Δg ≈ 2.1×10⁻⁶ m/s²)**を記録した。
この異常はΩ-TERRAシミュレーション内で再現された原始海盆の質量分布と一致しており、
AIはそれを「過去地球モデルと現行地球の局所共振」と判断した。
この事象は偶然ではなく、再構成演算の一部が現実の地球重力場に影響を及ぼしている可能性が指摘された。
すなわち、再演算が現実地球の基底共鳴構造に干渉しているということである。
以降、Ω-TERRAでは観測者の脳波・体温変動と地球磁場ノイズとの相関を常時監視するサブルーチンが追加された。
研究倫理委員会は、体験時間を連続45分以内に制限。
それ以上の滞在では、感覚同期と地磁気変動のフェーズ干渉が強まることが報告された。
科学的意義
Ω-TERRAは当初、地球史理解のための情報再構成実験と位置づけられていた。
だが運用開始後数週間で、プロジェクトの性質は根本的に変化した。
AIによる解析では、再構成地球の演算が現行地球の物理場に微弱ながら影響を与えることが確認された。
そのメカニズムは未解明だが、
「過去を再演算することが、現在の地球物理的条件に微細な補正を与える」
という現象が定常的に発生している。
これは因果律の逆転ではなく、
**時空的自己整合性(Self-Consistent Temporal Coupling)**の自然な帰結として説明可能である。
藤堂主任は記者会見でこう述べた。
「我々は過去を“観測”しているのではない。
地球自身が保持する時間構造の一部を再起動している。
それは干渉ではなく、自己整合的反応――
地球が自らの記録を参照する行為に等しい。」
Ω-TERRAは以後、研究機関を超えて教育・環境工学・地球統計モデルに応用されるようになり、
人類は初めて「過去の地球を操作可能な解析対象」として扱う時代へ入った。
だが同時に、内部演算と現実の境界が曖昧化し、
研究者たちは**“仮想地球の安定性”**を監視する新たな任務を負うことになる。