第65章 海底の心臓 ― Subduction Resonator
《しんかいΩ-II》が海面へ浮上したのは、夜明けから三時間後だった。
船体表面は微細な泡で覆われ、熱を帯びた金属が朝の光を受けて白く光っている。
吊り上げられた潜航艇の下から、海水が滝のように流れ落ちた。
甲板に降ろされると同時に、整備班が酸素マスクをつけて駆け寄る。
潜航士の凪は、ヘルメットを脱ぐと汗と海水の混じった息を吐いた。
「……生き物みたいでした。呼吸してた。」
誰も笑わなかった。
サンプルは耐圧容器「Seamlock-12」に封入されたまま、
甲板中央の移送トラックに載せられた。
透明な強化アクリル越しに覗くと、金属片はわずかに光を放っている。
光ではない。自己干渉反射――入射角に応じて色が変化する。
表面に刻まれた微細な幾何線が、周期的に“呼吸”するように見えた。
藤堂は手帳を開き、実験担当者に指示を出した。
「減圧は禁じる。内部圧力三十八メガパスカルを維持したまま、
分析棟まで空冷搬送。温度変化は±〇・五度以内。」
凪がぼそりと呟く。
「博士、あれ……まだ動いています。」
「動いてるのではない。」
藤堂は短く言った。
「記憶が、まだ“解凍”されていないだけだ。」
《かいめい改》船内、第一観測室。
金属片の分光データがスクリーンに展開されていた。
主成分はニッケル・シリコン複合、だが通常の準結晶とは異なり、
原子間のエネルギー状態が常温超伝導の準安定域にある。
電子スピン分布は自然物の三倍、整列率は百分の一単位で地磁気周期と同期していた。
藤堂はデータを指差す。
「これが地殻波の“吸収”反応。つまり、地震波エネルギーを音に変換して消している。」
「音に?」凪が首を傾げる。
「厳密には、地殻応力の逆相干渉波。
波の形を覚え、逆位相で出力して打ち消す。
……ノイズキャンセリング・アース。そう呼べばわかりやすいか。」
凪は静かに笑った。
「地球を、静かにする装置。」
「いや、呼吸を整える装置だ。」
室内のスピーカーが、記録された低周波を再生する。
――ぼうん、ぼうん、と。
鈍い鼓動のような音。
それは海底から聞こえた装置の磁場振動を、可聴域に変換したものだった。
聞いていると、心拍と音が一致していく。
藤堂は目を閉じた。
「この音、地殻のストレス波と一致してる。
つまり、この装置は“地球の心臓”と同じリズムで動いていた。」
数日後。サンプルは筑波の量子地球科学センターへ搬送された。
施設は極低温チャンバーと融合炉直結のエネルギー供給棟を備え、
金属サンプル解析のための“地球上で最も静かな部屋”と呼ばれていた。
装置は直径六メートルの真空槽に封入され、
外壁には高温超伝導コイルが配置されている。
凪はガラス越しにその球体を見つめた。
「こんな場所で、地球の一部を研究しているって変な感じです。」
「地球を、地球から切り離すことはできない。
だが、観測するたびに“違う地球”が見える。」
藤堂の声は穏やかだった。
「それが、我々の仕事だ。」
融合炉から供給されるエネルギーが、ゆっくりとチャンバーに流れ込む。
磁場強度〇・〇五テスラ。
加熱は行わない。目的は刺激ではなく“共鳴”の確認だ。
電磁波が低周波で走る。
最初は何も起きなかった。
が、二分後――。
金属片の表面に、微細な光の模様が浮かび上がる。
青、白、そして薄い金の線。
それらが干渉し、まるで生体の脈管のように複雑にうねった。
凪が息を呑む。
「映像、録画を!」
モニターには、地球断面に似たパターンが現れていた。
マントル、地殻、外核――そして地表の大陸配置。
時間の流れとともに、その形が変化していく。
プレートが移動し、海が生まれ、大陸が裂ける。
映像の変化速度は、実際の地球の地質変動を数百万倍に圧縮したものと一致していた。
「これは……記録だ。」
藤堂の声が震えた。
「この装置は、地球の地殻活動をリアルタイムで記録していた。」
だが、映像の最後は暗転した。
黒い波紋だけが広がり、やがて静止する。
解析AIが告げる。
《最終更新:三億二千万年前。以後、エネルギー入力なし。》
藤堂は静かに言った。
「装置は……死んでいる。」
凪はスクリーンを見つめ続けた。
映像の中で、最後のフレームが微かに光る。
それは大陸分裂直前の地球――パンゲアの姿。
その中央、今の日本列島の原型にあたる位置に、
微かな光点があった。
まるで、そこに“心臓”があったかのように。
その夜。観測棟の外は霧雨だった。
夜空に浮かぶ月が、薄く滲んでいる。
凪は記録端末に音声を吹き込んだ。
> 「Artifact-SLSC-01:分析中。
> 内部構造は熱流・磁場・音波の多層干渉体。
> 地球の鼓動と同周期。
> 装置の終端記録は三億二千万年前。
> そのとき、何があったのか……。」
装置は沈黙している。
だが、その沈黙の奥で、確かに“何か”が記録されていた。
地球が自らの変動を写し取るように、
惑星そのものが記憶を残す構造体だったのだ。
藤堂は独り言のように呟く。
「もしこの装置が心臓なら、地球は一体、誰の身体なんだろうな……。」