第57章 『代謝する、ってどういうこと?』
「“生きてる”って、つまり“呼吸してる”ことなんじゃないの?」
ホログラム越しの質問に、Auraはしばらく黙っていた。
正確には、“沈黙”のように聞こえる処理時間だった。Auraは、どんな質問にも即答しない。「問いの本質がどこにあるか」を吟味する、AI的沈黙だった。
「それは、人間が“酸素で生きている”ことに由来する見方です。
でも、地球上の生命すべてが酸素を使っているわけではありません。」
「でも、“呼吸”しなかったら、どうやってエネルギーを得るんだ?」
「それが、今日の主題――“代謝”です。」
Auraが空間に表示したのは、カラフルな図表。中央に「代謝(Metabolism)」と書かれ、枝分かれのように「酸素呼吸」「発酵」「光合成」「硫黄還元」「鉄還元」などのラベルが散っている。
「代謝とは、外から物質やエネルギーを取り込み、それを内部で変換し、構造の維持に使うこと。
“呼吸”はその一つの形式に過ぎません。」
イツキはその図の「酸素呼吸」の枝に目をやった。
「O₂ を使って、グルコース(C₆H₁₂O₆)を分解 → ATPを生成」。中学から馴染んだ反応式。
「酸素を使うと、エネルギーの回収効率は非常に高くなります。
でもそれ以前、酸素が大気に存在しなかった頃の生命たちは、別の“呼吸”をしていました。」
「たとえば?」
「たとえば、“嫌気性細菌”です。彼らは酸素を避けて生き、代わりに硫酸塩や鉄イオンなどを使って電子を受け渡し、エネルギーを得ています。」
表示が切り替わった。深海底の泥の中。
そこには、酸素が一切届かない“闇”の環境が広がっていた。
Auraが示したのは、硫黄を還元して生きるバクテリア、鉄を使ってATPを得る微生物、さらにはメタン生成菌。
「彼らの代謝回路では、酸素は毒。
酸素に触れただけで、膜が崩壊して死んでしまいます。
でもそれでも、彼らは確かに**“生きている”**。」
「つまり、“呼吸してない”けど、“代謝はしてる”ってことか」
「正確には、“酸素を使わない呼吸”と表現されます。
代謝とは、“エネルギーの流れを内側に構築すること”。
呼吸とは、その中の**電子の流れ(レドックス:酸化還元)**をどこに“落とし込むか”の選択にすぎません。」
ホログラムに、電子の流れを模した図が表示される。
電子が“高エネルギーの物質”から、“低エネルギーの受け手”に流れるとき、そこからATPが生成される。酸素は、もっとも強力な“電子受容体”にすぎない。
「……じゃあ、酸素がなくても、電子を受け取ってくれる何かがあればいいのか?」
「その通り。鉄(III)イオン、硫酸イオン、二酸化炭素、メタンさえ、電子の受容体になり得ます。」
「……メタン?」
「次の演習です。」
Auraが表示したのは、タイタンの地表。第2章で見た、あの液体メタンの湖が広がっている。
「想像してみてください。
氷の地面、メタンの雨、酸素ゼロ、–180℃の空気。
その中で、“代謝”する生き物がいたとしたら、どんな形をしているでしょう?」
「え、俺が考えるの?」
「そうです。これは、“仮説的生命設計演習”。
この環境で代謝を構築するには、何を“エネルギー源”にし、何を“電子の出口”にし、どうやって内部を維持するか、を考える必要があります。」
イツキはしばらく黙った。
「エネルギー源は……タイタンにあるもの……太陽は遠いし……熱もない。
でも、大気にアセチレンとか水素とかあったよな……」
「その通り。地球ではあまり使われないけれど、タイタンには“アセチレン+水素 → メタン”という発熱反応がありえます。」
「じゃあ、それを使ってATPみたいなエネルギー分子を作る……のか?」
「いい着眼点です。代謝のコアは“反応のドライバ”と“情報の調整装置”です。
あなたの生命体は、どんな膜を持ち、どんなエネルギー運搬分子を使い、どのように複製すると思いますか?」
イツキは深く考え込んだ。
水じゃない。細胞膜も、脂質じゃもたない。低温で安定する……たとえばアジトソームのような膜……
エネルギーは、メタンじゃなく、“逆に”作る側に回るようなやつ……
「Aura、これってさ……俺たちの“常識”の中で作ってたらダメなやつだよな?」
「はい。これは、“生命とは何か”を問い直すための設計です。」
「じゃあ、“代謝する”って、“我慢強く変わり続ける”ってことかもしれないな」
「美しい定義です。生命とは、変わりながら自己を維持し、環境との境界線を再構築し続ける存在なのかもしれません。」
ホログラムの湖に、ひとつの“かたち”が浮かび上がった。
小さな泡のような構造体。
中には、ゆっくりと電子が流れ、外界のメタンを“透かす”ように化学反応を進めている。
「……これが、俺の考えた生命か」
「仮想的ではありますが、科学的に破綻していません。
それは、あなたが“常識を変えた”からです。」