第53章 《共生圏》「最初の受け入れ ― ミトコンドリアと共生の原点」
場所:同ラウンジ。室内は照明を落とされ、空間全体が分子スケールのシミュレーション投影に変わっている。
五人の人物は、まるでその中に「入り込む」ように立ち尽くしている。
ゆらめく海底。硫化鉱物の表面に、柔らかな細胞膜が漂う。
もう一つ、小さな粒子が、酸素の泡をまとってすれ違っていく。
スノーレン(静かに)
「ここが出発点。20億年前の浅海。
アスガルド型古細菌と、好気性プロテオバクテリア。
その“出会い”を、今から見ていく」
チサ(投影を見つめながら)
「この瞬間を、“選択”と呼んでいいのかはわからない。
でも、この一回きりの接触がなければ――私たちは存在しなかった」
小さな細胞が、膜をわずかに伸ばし、
酸素呼吸をしていた別の細胞を――ゆっくりと、ためらうように包み込む。
消化酵素は活性を示さない。
抗原提示も、排除応答も、まだ存在しない。
タッキー(解説するように)
「これが、“食胞形成”に近い最初期の細胞動作。
けれどここでは、相手が分解されていない。
膜の内側に、ただ“残ってしまった”だけ」
圭太(小さく息を吐く)
「事故みたいなもんだな。異物処理に失敗しただけって話だ」
夏樹(小さく首を振り)
「でも…その“失敗”がなかったら、酸素呼吸は外部のことのままだった。
この細胞は、自前でエネルギーをつくれなかった」
酸素のない環境で、共生体は一瞬うろたえる。
が、ホストの内部にわずかに残るプロトン濃度勾配を察知し、
内膜のATP合成酵素がかすかに回り始める。
ATPの放出。
それが、ホスト細胞の内部タンパク質に取り込まれ、
いくつかの代謝酵素がフォールディングを変化させる。
反応速度が、跳ね上がる。
タッキー(画面の反応速度曲線を指して)
「この“外からのエネルギー”が、細胞の挙動を変えた瞬間です。
このとき、ホストは自分でエネルギーを作るより、
“内部の他者”に作らせる方が効率的だと…構造的に“学習”してしまった」
チサ(頷き)
「それが、“依存”の始まり。
そして、依存は“統合”に向かう」
数万年のシミュレーションが圧縮再生される。
共生体が、自らの遺伝子の一部をホストの核へと“投げ渡す”。
もはや、自らの複製装置を必要とせず、ホストの分裂に合わせて増殖するようになる。
スノーレン(静かに)
「これは、複製する個体から、“機能を持つ構造”への転換だった。
生物が、自分のすべてを複製しなくても、
“内部の他者”に役割を分けるようになった。
これが、多細胞性と器官化の出発点」
圭太(目を細めて)
「つまり…ミトコンドリアってのは、最初の“外注”か」
夏樹(微笑む)
「でもその“外注”がいなかったら、意識も記憶も存在しない。
人間って、“他者を取り込んだ構造”から生まれてるんだね」
チサが、投影の中に見える、細胞の中のミトコンドリアをじっと見つめる。
チサ
「この共生は、誰かが決めたことじゃない。
でも確かに、“構造を変えた”。
そして、それが一度きりだったということが、何より重要」
タッキー
「地球のすべての真核生物は、この“1回だけの共生”から生まれた系統に属しています。
それ以外の“失敗例”は残っていません」
スノーレン(結論のように)
「火星のそれも、きっと“選択”ではない。
それは、“拒絶できなかったら始まる構造変化”。
この細胞のように――気づいたら、もう変わっている」
ホログラムがフェードアウトし、部屋に静寂が戻る。
誰もが、言葉にならない重さを抱えながら、黙って座る。
その沈黙を破ったのは圭太だった。
圭太
「じゃあ次は、“あれ”がミトコンドリアになるかどうかって話か。
共生になるか、絶滅になるか――その中間は、ないんだな」
スノーレン(小さく)
「たぶん、ない。
だって構造は、“受け入れるか、壊れるか”のどちらかだから」