第51章 《共生圏》「姿勢と感染」
場所:スイス・ジュネーブ郊外。国際進化学研究所・別館ラウンジ。
冬の午後、ガラス張りの窓から湖畔の白い霧が立ち上っている。
テーブルには、ホログラフィックの人体骨格投影と、ウイルス遺伝子挿入のシミュレーションログが広がっていた。
チサ(落ち着いた声)
「直立歩行の話から始めようか。
単に移動効率のためだけじゃない。
**“病原体から離れるため”**っていうの、意外だった?」
タッキー(腕を組み、端末を操作しながら)
「足裏の接地面が減ることで、土壌病原体への接触リスクが減少。
それに伴い、手が自由になる。
つまり直立は、感染回避戦略でもあったということです。論理的です」
圭太(コーヒーを啜りながら、皮肉っぽく)
「そりゃまあ、ウイルスのついた土に手突っ込んで、目こすればアウトだからな。
でも昔の人類がそこまで考えて立ち上がったのかね?」
夏樹(窓の外を見ながら振り向く)
「でも、実際そうなってたんでしょ?
直立したことで手が使えるようになって、道具が生まれて、
でもその分、肉食とか集団生活が進んで、**“感染しやすくもなった”**んだよね?」
タッキー(頷きながら)
「はい。実際、HLA遺伝子の多様化はその時期に集中しています。
集団内でのウイルス伝播圧が上昇した証拠です。
また、胎盤形成に使われている“シンシチン”はレトロウイルス由来遺伝子です。
感染が、進化の部品として使われたわけです」
スノーレン(ゆっくりした声で、資料も見ずに)
「つまり、“敵”だったウイルスが、身体の一部になった。
構造が変わったということだね。
拒絶しなかった、というより――たぶん、できなかったんだ」
(沈黙が落ちる。チサが視線を投げる)
チサ
「スノーレン、それは“ミトコンドリア”の話と重ねてるの?」
スノーレン(小さく頷く)
「そう。ウイルスよりも前に、もっと深い“侵入”があった。
細胞の中に、酸素を使ってATPをつくる細胞が入り込んだ。
それを排除できなかった。むしろ、そのおかげで“今の私たち”がある。
……そういう話だったよね?」
圭太(天井を見ながら)
「ミトコンドリアな。知ってるぞ、元は細菌だったんだろ。
いまでも勝手に分裂してるし。
あれだ、会社にいる“独立採算部門”みたいなもんだな」
夏樹(笑いながら)
「でも、その部門がなかったら、全身がエネルギー切れ起こすんだから、
めっちゃ重要な部署じゃん!」
タッキー(手元のホログラムを操作)
「この“取り込まれた異物が内部で働く構造”――
それを経験したのは、生命史の中で一度だけです。
その成功がなければ、神経系も、意識も、言語も生まれなかった。
……直立も、生殖も、感染も、すべては“共生”の上に積み重ねられた」
チサが静かに目を閉じる。
「その“共生”を、今、火星のあれがもう一度迫ってるとしたら……?」
スノーレンが、ただ一言。
「選ばされるんだよ。前と同じようにね。
構造が変わるか、消えるかのどちらかだ」




