第43章 進化の触媒、あるいは毒
国際衛生会議・ジュネーブ
薄暗い会議室に再び灯が入り、第13章での「絶滅仮説」の緊張感がまだ残っていた。スクリーンに映し出されたのは、胎盤の顕微鏡写真だ。細胞膜に規則正しく並んだ融合部位が、蛍光染色で浮かび上がっている。
「ご覧いただきたい」
藤堂科学主任が立ち上がった。
「これはシンシチンと呼ばれるタンパク質だ。哺乳類の胎盤形成に不可欠な分子であり、その起源は内在性レトロウイルスの遺伝子だ」
ざわめきが広がる。オルティスが思わず身を乗り出した。
「つまり、人類はウイルスを取り込むことで胎児を母体に守る仕組みを得た、というのですか?」
「その通りだ」
藤堂は力強く答えた。
「ウイルスは病をもたらすだけではない。ゲノムに侵入し、宿主の機能を変える。その中で有用な断片が残り、進化の新しい回路となった」
彼は、胎盤形成だけでなく、脳の発達、免疫の制御、記憶に関わる遺伝子群にも、ウイルス由来の配列が数多く確認されていると続けた。
星野医務官が冷ややかに反論した。
「あなたは“有用な断片”だけを見ている。しかし、その背後で何千、何万もの集団が犠牲になったか。致死性の流行がもたらした淘汰を『進化の触媒』と呼ぶのは、あまりに楽観的だ」
「だが事実だ!」
藤堂は声を荒げた。
「もしもウイルスがなければ、我々は胎盤を持たず、早産や流産に耐えられなかった。人類はウイルスが作った種だ。今、火星で見つかったPNA様の存在も同じかもしれない。新たな回路、新たな適応を開く可能性がある」
会議室の空気が緊迫する。AI〈Ω〉が会話に割り込んだ。
《解析:地球上の既知ウイルス由来配列は、ヒトゲノムの8.3%。機能獲得に寄与したと推定されるものはそのうち0.1〜0.3%。残余は『中立』または『有害』》
星野が机を叩いた。
「その例外に頼るのは自殺行為だ! 火星の標本を研究することで、人類にどんな代償が待つかわからない。隔離、封印こそ唯一の選択だ」
藤堂は静かに反論した。
「進化は常に代償を払ってきた。ネアンデルタールの絶滅、デニソワの消失、そのすべてが我々の存続に寄与した可能性がある。火星の『ウイルス』を拒むことは、未来を拒むことと同じだ」
〈Ω〉がさらに重ねる。
《提案:火星標本を『進化圧シミュレーション』に組み込み、人類の適応シナリオを演算する。予測:短期的には致死リスク高。長期的には新規免疫回路の獲得確率 3.7%》
その冷徹な数値に、会議室が沈黙に沈む。オルティスがぽつりと呟いた。
「ウイルスは死をもたらし、同時に未来を運ぶ……我々はその両面の上に立っているのですね」
スクリーンには胎盤の蛍光像が再び映し出されていた。その光は、人類がどのようにして「他者の遺伝子」を受け入れ、進化を続けてきたかを無言で語っていた。




