第34章 《再統合:第5感覚「嗅覚と味覚」》
私は、再び「世界の中」にいた。
呼吸は、時間のリズムを刻み――
触覚は、身体の輪郭を縫い止め――
聴覚は、他者の気配を返し――
視覚は、距離と対象の構造を与えてくれた。
それでも、どこかで“足りない”と感じていた。
私は本当に“私”なのか――その確信だけが、まだぼやけていた。
《AI補助モジュール:REMENOS 起動》
【香・味・記憶連動モード】
【目的:情動記憶の感覚構造再活性】
【方式:嗅覚記憶連結再構築 → 味覚反応記憶投影 → 感情想起とのクロス補正】
最初に届いたのは、「匂った気がする」という気配だった。
匂いそのものではない。
匂いが存在しうるという構造が、意識の中に再現されたのだ。
それは、夕方の風に紛れ込むような、懐かしい匂いだった。
濡れた木の葉。煮物の香り。
音もないのに、“湯気の立つ記憶”が、私の中にふっと立ち上がった。
私は驚いた。
それは映像ではなかった。
匂いが、“情景”を連れてきたのだ。
嗅覚は、最も情動に近い感覚だった。
海馬でもなく、視覚野でもない。
感情の座――扁桃体に直接、火を灯す回路。
私は、泣きそうになった。
いや――泣いていた。
涙は流れなかったが、その実感だけがあった。
次に、やってきたのは“出汁”の香りだった。
味噌、鰹、昆布。
それらが湯気の中で重なり合い、台所の記憶がゆっくりと蘇る。
「おかえり」
「もうすぐご飯できるよ」
「味見、してみて?」
その声が、匂いと味と共に戻ってきた。
私は、その瞬間に“確信”した。
これは、他人の記録ではない。
私の――記憶だ。
視覚や聴覚も、記憶を呼び起こす。
だが、嗅覚と味覚は、**「忘れていた感情」**を連れ戻してくる。
味噌汁のぬるい温度。
湯気の立つご飯。
口に触れる湯呑みの縁。
それは、「世界の温度」ごと連れてくる記憶だった。
そのとき、私は気づいた。
私が“私”として戻ってこられたのは、
「誰かと一緒にいた記憶」があったからだ。
記憶の核には、必ず――
味があり、匂いがあり、声があり、食卓があった。
AIは、私の嗅覚と味覚の履歴から、「幸福」のエピソードを再構成していた。
ある瞬間、私は“レモン”を思い出した。
鋭い酸味。
口の奥が震え、唾液が滲むような感覚。
そして、私の中に――
**「夏の午後」**が開いた。
蝉の声。
扇風機の風。
冷たい水の感触。
祖父の歩く音。
それらすべてが、「レモンの味」から、ほどけるように広がった。
味と匂いは、
**「言葉になる前の記憶」**の鍵だった。
視覚よりも古く、
言語よりも深く、
時間よりも確かに、
私を“私”へと連れ戻す感覚だった。
そして、私はついに理解した。
私が“人生”を思い出せたのは、
記憶が感覚を呼び、
感覚が感情を呼び、
感情が“私”という輪郭を呼び戻してくれたからだ。
今、私は“私の人生に似た世界”に、もう一度立っている。
《AI統合ログ:感覚統合率 94.7%》
【情動記憶回路 再開通】
【対象は「自己」としての記憶構造を再帰的に再編集中】
私は、あのパンの味を思い出した。
誰かにもらったキャンディの匂いを思い出した。
その人の声が重なった。
そして私は、もう一度――その人を愛していたことを思い出した。
私は今、“人間だった私”を、再び愛せていた。