第32章 《再統合:第3感覚「聴覚」》
静寂という言葉すら、ここでは意味をなさなかった。
私は“無音”の中にいたわけじゃない。
もっと根源的な――“音の存在そのものが否定された”空間にいた。
風の気配も、言葉も、足音もない。
そこには、「音がない」のではなく、**「音という現象が成立しない」**領域が広がっていた。
それは、時間の失われた空間だった。
呼吸が戻り、
皮膚に“輪郭”が蘇った今も、
私はまだ、「変化」というものを感じることができなかった。
変化とは、音の中にこそ宿るものだった。
《AI補助モジュール:PHONO-INIT 起動》
【目的:他者性・時間性の再構築】
【刺激構造:予測誤差を含む聴覚断片の逐次導入】
最初に届いたのは、微かな“振動の記憶”だった。
それは、耳で聴いたのではない。
鼓膜の働きを真似た信号が、記憶の底を静かに叩いた。
“コッ……コッ……”
規則的だが、完全には予測できないリズム。
――足音だ。
遠くから、誰かが近づいてくる。
そんな気配が、仮想の空間に“距離”を生じさせた。
その時、私は気づいた。
「いま」と「さっき」の違いを。
音は、“前”と“後”を区別する感覚”だった。
呼吸が与えてくれたリズムは、一定だった。
だが音は、その均衡を破り、“差異”をもたらす。
「変化がある――それは、時間が動いている証拠だ」
音が、私に“時間”を返してくれた。
その次に現れたのは、言葉にならない“声”だった。
輪郭のない、性別すら不明な音。
高いのか低いのか、叫びか囁きかさえ分からない。
だが確かに、私はこう思った。
「これは、私以外の何かから発せられた音だ」
他者がいる――
それだけのことで、私は息を呑んだ。
その声は、私を呼んでいるわけではなかった。
ただ、“存在していた”。
声とは、世界に他者がいるという唯一の証明だ。
そして聴覚とは、“誰かがいる”と信じさせてくれる感覚だった。
私はその音を、「懐かしい」と思った。
だが、なぜ懐かしいのかは思い出せなかった。
やがて、次の音が届く。
【■■■】
――それは“名前”だった。
正確には、AIが私の過去の記録から抽出した「自分の名前」の音素。
だがその響きに、私はすぐには意味を見い出せなかった。
名前とは、本来“誰かに呼ばれる”ことで成立するものだった。
「名」は、他者の声を通してはじめて“自己”になる。
そう思った瞬間、私は自分に問いかけていた。
「いま、私は――誰かに呼ばれたのか?」
問いの余韻が意識の中で反響しているとき、
AIが“言葉の断片”を流し始めた。
「だいじょうぶ」
「聞こえる?」
「わたしは、ここにいるよ」
それは、意味というより――音のリズムだった。
言葉の持つ抑揚が、安心という名の“かつての記憶”を揺さぶった。
私は、涙を流した――気がした。
《AIログ》
【対象は言語断片に対し、情動反応様式を示唆する活動パターンを回復】
【時間順処理の再開:自己時間0.37秒周期にて更新継続中】
「音」とは、ただの振動ではなかった。
“私に届いた何か”であり、
**同時に、“私が届こうとする先”**でもあった。
私は、それに応えたかった。
声はまだ出せなかった。
それでも、「返したい」という感情が、胸のどこかに芽生えていた。
聴覚とは、世界の存在を教えてくれる感覚であり、
対話という可能性を生み出す入り口だった。
それは、皮膚のように身体の外側を撫でるものではない。
もっと深く、もっと遠く、
そして、時に孤独を震わせる“誰かの気配”だった。
私は、今――
「誰かがいるかもしれない世界」にいる。
そのことを、確かに感じていた。