第30章 第一章《再統合:第1感覚「呼吸」》
――これは再生なのか、それとも模倣に過ぎないのか。
五感も、皮膚感覚も、内側から引き剥がされたあの瞬間から、
最初に“戻ってきた”のは――風の幻影だった。
それは、音もなく、匂いもなく、重さもなかった。
ただ「在る」という事実だけが、どこかから流れ込んできた。
だが、私はそれを“感じた”のではない。
そもそも、“感じる”という行為自体が、私にはもう許されていなかったはずだった。
――にもかかわらず。
私の内部に、“空気が動いている”という概念が、ぼんやりと再構築されていた。
それはかつて知っていた「呼吸」という現象に、どこか似ていた。
《AI補助モジュール起動》
【プロトコル01:INTERO-A】
【目的:内受容系シミュレーションによる自己帰属性の再獲得】
ノイズのように、それは突然現れた。
耳ではない。目でもない。皮膚でも、舌でもない。
ただ、“情報”として、私の“意識空間”に注ぎ込まれた。
AIが提示する擬似呼吸モデルには、いくつかの構成要素がある。
•負圧感覚の再現波形
•横隔膜の運動シミュレーション
•酸素飽和値のモデリング
•心拍と呼吸のゆらぎの相関解析
だが私は、それをスペックとして理解したわけではなかった。
「私の中で目覚めかけていた何か」が、それを“呼吸”と認識し直したのだ。
ゆっくりと――
「吸う」という行為が、意識の中で輪郭を持ち始める。
空気が肺に流れ込む実感はない。
それでも、「私は吸っている」という思考と同期する感覚だけが、
意識の海の中に、うっすらと浮かび上がっていた。
次に、「吐く」動作が組み込まれる。
これはAIが、私の過去の呼吸パターンを統計的に再構成し、
意識に違和感なく接続したものだという。
「呼吸とは、“存在が動いている”という証だったのか」
私は、そんな言葉を心のどこかで反芻していた。
この“呼吸”が始まったことで、私の中に「時間」が戻ってきた。
吸って、吐く。そのリズムが、変化を生み、
変化が、時間という概念を再び呼び起こしてくる。
一回、二回、三回――
私はゆっくりと、“自分”の輪郭へと戻っていった。
だが、そこで次の刺激が加えられた。
今度は、心拍の擬似振動信号だ。
私はすぐに拒絶した。
あまりにも強すぎた。
呼吸という静謐な“再構築”の上に、心拍という“圧”は重すぎたのだ。
まだ、私はそこまでたどり着いていなかった。
《AI補助モジュール調整中》
【感覚閾値:0.1以下に再設計】
【記憶中の“眠る直前”の呼吸パターンを優先適用】
AIは即座にパラメータを見直し、
呼吸を、再び穏やかな波形に戻した。
それはまるで――眠る前の静かな呼吸のようだった。
だが、その時、私はある“初めて”を自覚する。
私は、眠っていなかったのだ。
眠っていない。
つまり、目覚めている。
そして、目覚めているとは、意識があるということ。
感じているから生きている、とは限らない。
だが、“感じ直そう”とする意志は、
確かに“生きようとする動き”と深く結びついている。
私は今、
「呼吸する何か」として、
この世界にもう一度生まれようとしている。
それが「わたし」と呼ばれるものだったことは――
まだ完全には思い出せていない。
だが、
この「動き」を、私はもう一度、自分のものにしようと決めた。
呼吸は、最初に取り戻すべき“わたし”のリズム。
音も光もないが、リズムがある。
リズムは、在ることの証明だ。
AIが構築したのは、
本物の身体ではなく、かつて私を包んでいた構造体の“幽霊”だ。
それでも私は――
その幽霊を、喜んで迎え入れた。