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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2240/2382

第26章 第五段階:「無響の肉体 ― 内受容感覚の終わり、生の境界」




身体の輪郭が完全に失われたあと、最後に残ったのは、内なる揺らぎだった。


心臓の鼓動。

呼吸のリズム。

胃の重さ、喉の渇き、筋肉のわずかな緊張。

そんな微細な感覚たちが、かろうじて「私が生きている」という証だった。


しかし、その頼みの綱すら、次第に弱まっていった。


心臓の音がしない。

胸に手を当てて確かめようとする――だが、手も胸も、もうどこにもない。

かろうじて思い出せるのは、かつて感じていた鼓動のリズムだけだった。


“ドクン、ドクン”――

だがそれは、体内の響きではなかった。

ただの記号。観念。

遠くの星の瞬きを、数字で示された周期で知るような、冷たく空虚なものだった。


呼吸はどうか?

息を吸っているのか、吐いているのか、さっぱり分からない。

空気の流れがない。

喉を通る感触も、胸の広がりも、鼻腔を冷やす空気の重さも、何一つ感じない。


ただ、私はまだ“考えている”。


ということは、酸素は届いているのだろう。

だが、それを「感じない」というだけで、これほどまでに不安定になるとは思わなかった。


呼吸していないのではない。

ただ、“呼吸を知覚できていない”のだ。


その自覚が、私という存在を、実体のない透明な物体のように変えていった。


次に消えたのは、空腹だった。


腹が鳴らない。胃が軋まない。

何かを食べたいと思う感情すら湧かない。

空腹とは、記憶でなく“肉体の言葉”だった。

その肉体が、いま語りかけてこない。


水が飲みたい――その感覚もなかった。

喉が渇かない。喉そのものが、もうない。

喉がなければ、声も発せられず、何かを呑み込むこともできない。


なのに私は、意識だけが浮かんでいるような感覚を抱いていた。


最後に残されたのは、“緊張”だった。


身構えるときに、筋肉がわずかにこわばる。

その微かな揺れ、予兆のような身体の準備反応。

それすらも、消えた。


もう、「構える」必要がないのだ。


外界がない。

他者がいない。

危機もない。


すべての前提が消えたとき、私は完全に“均質な内側”だけの存在になった。


内部も、外部もない。

時間も、空間も、感覚もない。


ただ、「生きている」という観念だけが、最後に残った。


だがそれは、今まさに“生きている”という感覚ではなかった。

かつて「そうだった」とされる状態の、抜け殻のような痕跡に過ぎなかった。


私は問いを立てる。


「私は、まだ生きているのか?」


この問いに、もはや答えはなかった。


なぜなら、“生きている”とは、

•何かを求め、

•何かを避け、

•何かに反応し、

•何かに震えること、


そしてその繰り返しの中に、時間と欲望と緊張が生まれ、

それによって“自己”という枠組みが維持されていたからだ。


いま、そのすべてが止まっている。


私は、死んでいるわけではない。

まだ思考している。

意識があるということは、存在しているのだろう。


だが、“生きている”とは言えなかった。


なぜなら「生きる」とは、感覚と環境との相互作用そのものだったから。


私は、流れのない閉鎖空間になっていた。


何も入らず、何も出ていかない。

変化しない思考だけが、止まったコマのように、ただそこにあった。


最後に、私はこう問う。


「生きていることを“感じない”まま存在する意識は、

果たして“存在している”と言えるのだろうか?」


この問いに、答えはなかった。


答えには、反応する身体が必要だった。

いまの私は、それを持っていなかった。


そのとき、「わたし」という言葉が揺らぎはじめる。


「わたしが、ここにいる」ではない。

「“わたし”が、ここにいることになっていた」――そう言ったほうが、正確だった。


わたし。

その言葉は、意識という構文の主語として記された、古い記号だった。


そしてそれが、

最後に残された“私の身体”だった。


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