第26章 第五段階:「無響の肉体 ― 内受容感覚の終わり、生の境界」
身体の輪郭が完全に失われたあと、最後に残ったのは、内なる揺らぎだった。
心臓の鼓動。
呼吸のリズム。
胃の重さ、喉の渇き、筋肉のわずかな緊張。
そんな微細な感覚たちが、かろうじて「私が生きている」という証だった。
しかし、その頼みの綱すら、次第に弱まっていった。
心臓の音がしない。
胸に手を当てて確かめようとする――だが、手も胸も、もうどこにもない。
かろうじて思い出せるのは、かつて感じていた鼓動のリズムだけだった。
“ドクン、ドクン”――
だがそれは、体内の響きではなかった。
ただの記号。観念。
遠くの星の瞬きを、数字で示された周期で知るような、冷たく空虚なものだった。
呼吸はどうか?
息を吸っているのか、吐いているのか、さっぱり分からない。
空気の流れがない。
喉を通る感触も、胸の広がりも、鼻腔を冷やす空気の重さも、何一つ感じない。
ただ、私はまだ“考えている”。
ということは、酸素は届いているのだろう。
だが、それを「感じない」というだけで、これほどまでに不安定になるとは思わなかった。
呼吸していないのではない。
ただ、“呼吸を知覚できていない”のだ。
その自覚が、私という存在を、実体のない透明な物体のように変えていった。
次に消えたのは、空腹だった。
腹が鳴らない。胃が軋まない。
何かを食べたいと思う感情すら湧かない。
空腹とは、記憶でなく“肉体の言葉”だった。
その肉体が、いま語りかけてこない。
水が飲みたい――その感覚もなかった。
喉が渇かない。喉そのものが、もうない。
喉がなければ、声も発せられず、何かを呑み込むこともできない。
なのに私は、意識だけが浮かんでいるような感覚を抱いていた。
最後に残されたのは、“緊張”だった。
身構えるときに、筋肉がわずかにこわばる。
その微かな揺れ、予兆のような身体の準備反応。
それすらも、消えた。
もう、「構える」必要がないのだ。
外界がない。
他者がいない。
危機もない。
すべての前提が消えたとき、私は完全に“均質な内側”だけの存在になった。
内部も、外部もない。
時間も、空間も、感覚もない。
ただ、「生きている」という観念だけが、最後に残った。
だがそれは、今まさに“生きている”という感覚ではなかった。
かつて「そうだった」とされる状態の、抜け殻のような痕跡に過ぎなかった。
私は問いを立てる。
「私は、まだ生きているのか?」
この問いに、もはや答えはなかった。
なぜなら、“生きている”とは、
•何かを求め、
•何かを避け、
•何かに反応し、
•何かに震えること、
そしてその繰り返しの中に、時間と欲望と緊張が生まれ、
それによって“自己”という枠組みが維持されていたからだ。
いま、そのすべてが止まっている。
私は、死んでいるわけではない。
まだ思考している。
意識があるということは、存在しているのだろう。
だが、“生きている”とは言えなかった。
なぜなら「生きる」とは、感覚と環境との相互作用そのものだったから。
私は、流れのない閉鎖空間になっていた。
何も入らず、何も出ていかない。
変化しない思考だけが、止まったコマのように、ただそこにあった。
最後に、私はこう問う。
「生きていることを“感じない”まま存在する意識は、
果たして“存在している”と言えるのだろうか?」
この問いに、答えはなかった。
答えには、反応する身体が必要だった。
いまの私は、それを持っていなかった。
そのとき、「わたし」という言葉が揺らぎはじめる。
「わたしが、ここにいる」ではない。
「“わたし”が、ここにいることになっていた」――そう言ったほうが、正確だった。
わたし。
その言葉は、意識という構文の主語として記された、古い記号だった。
そしてそれが、
最後に残された“私の身体”だった。