第23章 第二段階:「音の消失 ― 他者がいなくなる日」
視界が閉ざされてから、どれだけの時間が経ったのか、それを測る術はなかった。
時計を見ることも、太陽の位置を確かめることもできない。
そんな状況のなかで、私はかろうじて「世界」との接点を保とうとしていた。
頼りは、「音」だった。
足音、空調の低い唸り、誰かがドアを開ける気配。
自分の咳払い、呼吸の音、ひとり言。
それらが聞こえるうちは、まだ“他者”がこの世界に存在していると信じることができた。
だが、あるとき、違和感が走った。
音が……消えていた。
それは、静けさではなかった。
むしろ、空間全体が“音を受け取らない構造”に変化したようだった。
音が吸収されているわけではない。
最初から、“存在していない”のだ。
最初に気づいたのは、空調の音だ。
それが消えた。
次に、外から聞こえていた雑音――車の音、鳥の声、人のざわめき。
それらが、徐々に、だが確実に、姿を消していった。
私は声を出してみた。
のどは震えた。
その感覚だけは、かすかに残っていた。
けれど、音が返ってこない。
何も、聞こえない。
それが「沈黙」ではないことは、すぐに分かった。
音が、存在しない。
気づいた。
音とは、“他者がそこにいる”という証だったのだ。
誰かの声を聞き、音を通じて反応し、言葉を交わす――
それは、自分ではない存在が“確かにいる”という確認作業だった。
いま、その確認ができない。
誰もいないのではない。
「誰かがいるかどうか」すら、判断できない状態だった。
言葉が、変質し始める。
意味が分からなくなったわけじゃない。
だが、「誰かに向けて話す」という感覚が、徐々に剥がれ落ちていく。
「ありがとう」
「聞こえますか」
「わたしは、ここにいます」
それらは、もはや“語りかけ”ではなく、
頭の中で繰り返される“記号の残響”に変わっていった。
気づくと、私は会話の形式すら、失っていた。
呼びかけと返事、笑いと応答――
かつては当たり前だったそのやりとりが、音という媒介を失った瞬間、成り立たなくなった。
「誰かが答えてくれるかもしれない」
その仮定が崩れた瞬間、言葉はただの“独り言”に変わる。
いや、それよりも孤独だ。
独り言ですら、誰かが「聞いているかもしれない」という希望がある。
いまの私には、その仮定すらない。
記憶にすがろうとした。
誰かの声――母の声、友人の笑い声、誰かの怒鳴り声。
だが、音の記憶は曖昧だった。
視覚と違い、音は「形」を持たない。
残っていたのは、「その言葉があった」という骨組みだけで、声色も、抑揚も、どこかへ消えていた。
私の中から、「他者の輪郭」が消えていく。
私は、孤独を感じていたのか?
その問いに、即答できなかった。
なぜなら、「孤独」とは“他者が不在である”ことに起因する感情だ。
だがいまの私は――“他者がいた”という前提すら、曖昧になっている。
つまり、これは「孤独」ではない。
それはもう、“独在”と呼ぶべき状態だった。
“ただひとり”ではなく、“ひとりであることしか知らない存在”。
比較対象がない。
だから、自分が「ひとりである」ことすら、言語化できない。
そのとき、私は理解した。
音を失うとは、「他者という概念を失うこと」なのだと。
私はこれまで、声の違い、話し方のテンポ、間の取り方などから“他者”を識別してきた。
それが、すべて消えた。
等価になったのではない。
比較できない、差のない沈黙。
それは“無差異”と呼ぶべき、音の完全消去だった。
「あなた」という語が、私の中で消えていく。
代わりに「わたし」だけが、未定形のまま浮かび上がっていた。
誰にも届かず、誰とも区別されない「わたし」。
その瞬間、私は気づいた。
言葉が、“音を失った器”に変わろうとしている。
届くことのない声。
聞かれることのない呼びかけ。
応答のない構文。
それでも、まだ「わたし」の中には言葉が残っていた。
だがその言葉は、もはや私を「誰かのいる世界」の住人としてつなぎとめる力を、失っていた。




