第19章 閃光の中の幸福
――何かが流れ込んできた。
だが、“いま”しか存在しない私には、それが始まりなのか、終わりなのか、判断がつかない。
光がひらき、色が溢れ出す。身体の奥で何かが震えた。
ただ、圧倒的な“在り方”に包まれている。
それは痛みではない。だが、喜びと呼ぶこともできない。
“喜び”という言葉には、未来への余韻がある。
ここには、その“続き”が存在しなかった。
「投与開始。〇・一ミリグラム。」
看護師の声が聞こえた。
けれど、その音も次の瞬間には霧のように消える。
この世界では、声も意味も留まらない。
ただ、脳の奥で火花が散った。
金属の粒が光を放ち、皮膚の裏側で熱が立ち上る。
“幸福”という言葉は、もう理解できない。
けれど、確かに何かが“生きている”。
それは私自身ではない。
体の奥で、化学が踊っている。
血流が速くなり、心臓が脈を打つ。
しかしそのリズムの「前」も「後」もない。
鼓動は、無数の点として弾けているだけだ。
私は笑っているのだろうか。
おそらく、そうだ。
けれど、その笑みを見ている“私”はいない。
ただ、筋肉が上へ引き上げられ、頬が光を弾く。
世界は眩しく、透き通り、重力が消えていった。
――これが幸福なのか?
違う。
幸福とは、あとで思い出し、「よかった」と思えるものだ。
だが、私は思い出せない。
記憶も時間もない。
あるのは、この一瞬の爆発だけ。
脳の中で、電流のような化学反応が起きる。
ドーパミン、ノルアドレナリン。
細胞の中で火花が走り、意識の空を覆う。
それは銀河のように美しく流れるが――流れを感じない。
銀河は動いているのに、止まっている。
私はその中心で、光の粒に包まれていた。
まるで、時間が凝固した液体の中に沈んでいるようだった。
医師の白衣が揺れる。
その動きが見える。
しかし次の瞬間には、静止している。
動作が消えたのではない。
“動く”という概念そのものが、崩れている。
世界は無数の瞬間で構成され、どの瞬間にも“続き”がなかった。
幸福の電流が身体を駆け抜ける。
が、それも一瞬で消えた。
“消える”という感覚さえない。
ただ、それが“もうない”という事実だけが残る。
失ったという実感もない。
なぜなら、「失う」ためには時間が必要だからだ。
看護師の声が再び聞こえる。
だが、それも意味を持たない。
ただの音の波。
私はその波の中で微笑んだ。理由はない。
それが“幸福”という現象の名残なのだろう。
けれど、それは意識の産物ではない。
化学反応だ。
幸福は感じるものではなく、ただ“発火する”ものになっていた。
すべてが静止している。
それでも世界は眩しい。
光が粒となって弾け、空気が脈を打ち、皮膚の裏側で時間が溶けていく。
私は、“幸福”という構造そのものが意味を失っていくのを感じた。
感情は分解され、ただの神経信号として残る。
――これを幸福と呼ぶのか?
もしそうなら、幸福とは流れを持たない熱だ。
燃えた瞬間に、その灰ごと消える。
だから、私は痛くもなく、嬉しくもない。
ただ、“在る”。
それだけが、今ここにあるすべて。
そして、それは――恐ろしくも、美しかった。