第18章 《覚醒投与 ― “流れ”の再起動》
午前9時。
神経科のカンファレンスルームは、どこかぴんと張りつめた空気に包まれていた。
外の窓には、風一つなく、均質な光が落ちていた。まるで世界全体が一時停止したかのように、微動だにしない。
その静止のなかで、一枚のカルテが、机の中央に静かに置かれていた。
彼女の脳波は安定している。体温も、呼吸も、数値上の異常はない。
――だが、“流れ”がない。
毎日、同じ三行を書き続けている。
「ここ。わたし。ある。」
「読む。書く。つなぐ。」
「いま、だけ。」
それが、彼女の一日だった。
神経内科医のKがカルテに目を落としながら言った。
「代謝に問題はありません。皮質ネットワークも規則的に動いている。
ただ、情動系は完全に沈黙しています。ドーパミン応答も消えかけている。」
横にいた臨床心理士Mが、ゆっくりと首を傾げた。
「……苦しんでいない。でも、生きているとも言いがたい。
意識は、あまりにも静かすぎる。」
Kは頷いた。
「我々は、彼女の苦痛を取り除こうとしてきた。
だが、取り除きすぎたのかもしれません。
痛みも、喜びもなくなった彼女は、ただ“止まっている”。」
すると、看護師のRが、口を開いた。
「……彼女に“動き”を戻すつもりですか?」
Kが短く答える。
「少量の覚醒刺激薬を試します。中枢ドーパミン系を軽く刺激して、
“次に”という感覚を再起動させるんです。」
Mの顔に、複雑な表情が浮かぶ。
「それは、苦しみを戻すことにもなる……」
「そうです」とKが断言する。
「時間とは、“未来”があるということ。
未来が戻れば、苦しみも戻る。
でも、それが“生きる”ってことです。」
部屋の空気が、少し重くなる。
Rが、昨日のことを思い出したように言った。
「……昨夜、彼女が少し笑いました。
ほんの一瞬だけど、確かに“何か”が動いたんです。
あの動きを、もう一度見たい。
たとえ、それが苦しみを伴っていたとしても。」
Kは頷く。
「小さなドーパミンの波が、“流れ”を生むんです。
再び、“次”を意識させる。それだけで十分だ。」
金属の台車が、静かにカートを押して入ってきた。
透明な薬液が光を反射して、かすかに揺れている。
Rは注射器を手に取り、針を準備した。
「……ほんとうに、これでいいんですか。」
「苦しみのない生は、生ではないかもしれません。
“動く”こと、それが命です。」
Kの声は、どこまでも静かだった。
Rが病室に向かい、そっと扉を開ける。
彼女はいつものようにノートの前に座っている。
ページの角が光に照らされて、揺れた。
注射器の針が、彼女の腕に触れる。
その瞬間、指先が、ほんのわずかに震えた。
「反応あり。前頭前野が動き始めている。」
Kの声に、緊張が走った。
「彼女の目……動いてるわ。」
Mが呟く。
ノートに、彼女の手が伸びる。
ペン先が、紙に触れる。
「ひ……」
止まる。
だが、また動いた。
「ひかり。」
Kの眉が動いた。
「彼女、言葉を……増やした。」
Rが、思わず息を呑む。
「時間が、戻ってきてる……」
そのとき、患者の表情に、影が差した。
眉が、ほんの少しだけ寄る。
苦しみか――いや、違う。
だが、何かを“感じている”。
「……戻ったんですね、苦しみも、時間も。」
Mの声が、低く響いた。
「ええ。」
Kが頷いた。
「それこそが、“生きる”という現象なんです。」
モニターの波形が、静かに脈打つ。
それは、生のざわめきをわずかに帯びていた。