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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2232/2382

第18章 《覚醒投与 ― “流れ”の再起動》




午前9時。

神経科のカンファレンスルームは、どこかぴんと張りつめた空気に包まれていた。

外の窓には、風一つなく、均質な光が落ちていた。まるで世界全体が一時停止したかのように、微動だにしない。


その静止のなかで、一枚のカルテが、机の中央に静かに置かれていた。

彼女の脳波は安定している。体温も、呼吸も、数値上の異常はない。

――だが、“流れ”がない。


毎日、同じ三行を書き続けている。


 「ここ。わたし。ある。」

 「読む。書く。つなぐ。」

 「いま、だけ。」


それが、彼女の一日だった。


神経内科医のKがカルテに目を落としながら言った。


「代謝に問題はありません。皮質ネットワークも規則的に動いている。

 ただ、情動系は完全に沈黙しています。ドーパミン応答も消えかけている。」


横にいた臨床心理士Mが、ゆっくりと首を傾げた。


「……苦しんでいない。でも、生きているとも言いがたい。

 意識は、あまりにも静かすぎる。」


Kは頷いた。


「我々は、彼女の苦痛を取り除こうとしてきた。

 だが、取り除きすぎたのかもしれません。

 痛みも、喜びもなくなった彼女は、ただ“止まっている”。」


すると、看護師のRが、口を開いた。


「……彼女に“動き”を戻すつもりですか?」


Kが短く答える。


「少量の覚醒刺激薬を試します。中枢ドーパミン系を軽く刺激して、

 “次に”という感覚を再起動させるんです。」


Mの顔に、複雑な表情が浮かぶ。


「それは、苦しみを戻すことにもなる……」


「そうです」とKが断言する。


「時間とは、“未来”があるということ。

 未来が戻れば、苦しみも戻る。

 でも、それが“生きる”ってことです。」


部屋の空気が、少し重くなる。

Rが、昨日のことを思い出したように言った。


「……昨夜、彼女が少し笑いました。

 ほんの一瞬だけど、確かに“何か”が動いたんです。

 あの動きを、もう一度見たい。

 たとえ、それが苦しみを伴っていたとしても。」


Kは頷く。


「小さなドーパミンの波が、“流れ”を生むんです。

 再び、“次”を意識させる。それだけで十分だ。」


金属の台車が、静かにカートを押して入ってきた。

透明な薬液が光を反射して、かすかに揺れている。

Rは注射器を手に取り、針を準備した。


「……ほんとうに、これでいいんですか。」


「苦しみのない生は、生ではないかもしれません。

 “動く”こと、それが命です。」

Kの声は、どこまでも静かだった。


Rが病室に向かい、そっと扉を開ける。

彼女はいつものようにノートの前に座っている。

ページの角が光に照らされて、揺れた。


注射器の針が、彼女の腕に触れる。

その瞬間、指先が、ほんのわずかに震えた。


「反応あり。前頭前野が動き始めている。」

Kの声に、緊張が走った。


「彼女の目……動いてるわ。」

Mが呟く。


ノートに、彼女の手が伸びる。

ペン先が、紙に触れる。


 「ひ……」


止まる。

だが、また動いた。


 「ひかり。」


Kの眉が動いた。


「彼女、言葉を……増やした。」


Rが、思わず息を呑む。


「時間が、戻ってきてる……」


そのとき、患者の表情に、影が差した。

眉が、ほんの少しだけ寄る。

苦しみか――いや、違う。

だが、何かを“感じている”。


「……戻ったんですね、苦しみも、時間も。」

Mの声が、低く響いた。


「ええ。」

Kが頷いた。

「それこそが、“生きる”という現象なんです。」


モニターの波形が、静かに脈打つ。

それは、生のざわめきをわずかに帯びていた。


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