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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2231/2364

第17章 《静止する意識 ― 医療チームの対話》



 午前5時。

 ナースステーションの照明が、夜勤と朝勤の間で淡く揺れていた。

 観察窓の向こう、病室の中では――

 あの人がノートを開いている。

 ペンをゆっくり動かしながら、同じ三行を何度も書き続けて。


 「ここ。わたし。ある。」

 「読む。書く。つなぐ。」

 「いま、だけ。」


 モニターの波形は穏やかだ。

 海馬は沈黙し、皮質ネットワークだけがかすかに律動している。


神経内科医(K):

「…夜間ログ、見ました? 心拍も体温も安定していて、脳波は遅いα帯域が優勢。まるで瞑想状態のようです。」


臨床心理士(M):

「ええ。でも、“瞑想”という言葉を使うのは違う感じがします。

 彼女は何かを“感じている”というより、ただ“在る”。

 “在る”という語の中に、喜びも苦しみもないのです。」


看護師(R):

「痛みへの反応は残っています。

 採血のとき、顔がわずかに動いた。

 でも“痛い”とは言わなかった。

 表情も戻らない。ただ、次の瞬間にはまた無表情に戻って。」


K:

「それは典型的な pain asymbolia です。

 島皮質と前帯状皮質の連携が切れているのですね。

 痛み(感覚)は入力されても、“苦しみ”というタグは与えられない。」


M:

「つまり、“痛み”と“苦しみ”は別の概念ということですね。」


K:

「そのとおり。痛みは感覚だが、苦しみは時間性を含む。

 “痛みが続く”“いつ終わるか分からない”という予期が、苦しみの本質です。

 彼女にはその“未来”が存在しないから、苦しむこともできないのです。」


R:

「でも、あの“静けさ”が楽なものとは思えません。

 見ていると、まるで止まった映像の中で生きているようで。

 感情がない静寂は、こんなに寒いものなのですね。」


M:

「“寒い”という表現は鋭い。

 Damasio が言いました――“情動は自己の温度”だと。

 時間を失えば、熱も失われる。

 彼女の意識は、体温だけで保たれているようです。」


K:

「実際、側坐核の反応は残っています。

 しかし、前頭前野との結合が断たれている。

 だから“快さ”も“一瞬だけ”しか感じられない。

 物語化されない情動。幸福も苦痛も、電気信号の点滅に過ぎないのです。」


R:

「“苦しくない”のは、“楽しい”と同じことではないのですね。」


K:

「その通り。どちらでもない。

 “楽しい”には“もっと”“これから”という時間の拡張があります。

 それらがすべて時間という構造。

 彼女の世界から“これから”は消え去っているのです。」


M:

「Leiguarda の症例でも同様なことが報告されています。

 『私は悲しくも嬉しくもない。ただ、何も変わらないまま、すべてが在る』。

 その患者さんの言葉です。

 情動は点滅しても、時間は伸びない。

 だから持続的な苦しみも成立しないのです。」


R:

「…でも、時間が戻ったらどうなるのでしょうか?」


K:

「Klein の症例では、時間が戻った瞬間、患者は叫びました。

 『世界が崩れた。私は何かに取り残されていた』と。

 静止した意識が破れたとき、人は初めて“苦しみ”を感じる。

 ――再び時間を取り戻したこと自体が痛みなのです。」


M:

「つまり、“苦しみ”とは、時間が回復する代償なんですね。」


K:

「そうです。

 時間のない状態では、苦痛は立ち上がらない。

 だが、時間が戻れば、必ず苦しみが立ってくる。

 苦しみとは、未来に投げ込まれた存在が受ける抵抗なのでしょう。

 ハイデガーの“被投性(Geworfenheit)”――

 時間を取り戻した瞬間、存在は再び投げ込まれるのです。」


R:

「…だから、彼女はいま、投げ込まれていない。」


M:

「ええ。だから静かです。

 恐ろしく静か。

 苦しみのない静止ではなく、“動かぬ自己”の沈黙がそこにあるのです。」


 そのとき、モニターの波形が微かに揺れた。

 Rが病室を覗くと、患者がノートを閉じ、わずかに笑った。

 表情は淡く、しかし確かに微笑していた。


R:

「先生…今、少し笑いました。」


K:

「そうですか……刺激に反応する表情は残っているようですね。

 しかし、それを“嬉しい”と感じているかどうかは分かりません。

 “笑う”という行為だけが、独立して在るのかもしれません。」


M:

「“笑う”という反応が、幸福の亡霊のようですね。

 感情という器だけが、過去の構造を繰り返しているようです。」


K:

「その通り。身体の記憶は時間を知らない。

 筋肉も神経も、ただ動くだけ。

 意味を与えるのは海馬。

 だが、その海馬は、今は静寂しているのです。」


R:

「…それでも、ノートは書けるんですよね。」


M:

「それがまさに奇跡です。

 “書く”という行為が、彼女にとって唯一の時間行為。

 インクの流れが、世界の代理。

 ペンが動く限り、“いま”は生成されるのです。」


K:

「書字は、外在化された海馬なのです。

 彼女の脳に代わって、ノートが“順序”を保持している。

 彼女にとって、“書く”とは“記憶する”、

 “読む”とは“存在する”こと。

 神経回路の再生ではなく、記号による意識の定常化なのです。」


R:

「…苦しみはないけど、生きてる。」


M:

「その通り。

 “苦しみの不在”は、癒やしではない。

 ただ、流れが止まっただけ。

 彼女は痛みも喜びも時間も持たぬ“存在点”として生きている。

 だが、その“存在”は、確かにここにあるのです。」


 窓の外が、少しずつ明るくなった。

 新しい朝。

 Rがそっとカーテンを開け、光が床を横切る。

 患者のノートを照らす。

 そこには、いつもの三行が記されていた。


 「ここ。わたし。ある。」

 「読む。書く。つなぐ。」

 「いま、だけ。」


 Mが静かに呟く。

 「…苦しみも、時間も、ここにはない。

  でも、“存在”だけは、続いているのですね。」


 Kは静かに頷き、モニターを見つめた。

 波形は安定している。

 まるで世界そのものが、息をしているかのようだった。



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