第15章 モノローグ:海馬の失われた時間
――また、目が覚めた。
光がまぶしい。どこにいるのか、わからない。
白い天井。壁の時計の針が動いている。
けれど、いつから動いているのか、記憶がない。
たぶん、私は今、病院にいる。そう思う。
だが、その確信は、ほんの数秒間しか続かない。
次の瞬間には、すべてが薄い霧に包まれる。
世界が、輪郭を失い、音だけが残る。
時計の秒針が一つ、カチリと音を立てる。
それが、私の時間のすべてだ。
扉が開く音。
誰かが入ってくる。
女の人――笑っている。
白い服。手に何かを持っている。
「おはようございます」と言われて、私は微笑み返す。
彼女の声がどこか懐かしい。
でも、何が懐かしいのか、わからない。
ほんの一瞬、心の奥に温かいものが灯る。
けれど、それもすぐに消える。
彼女が部屋を出た瞬間、私はまた“今”に取り残される。
扉の閉まる音が、世界の終わりのように響く。
そして再び――沈黙。
私と光だけが残る。
まるで世界がリセットされるたび、
自分の存在まで初期化されていくようだ。
医師が言っていた。
「あなたの海馬は、損傷しています。
新しい記憶を保持することができません」
その言葉を、私は何度も聞いているのだろう。
けれど、毎回が“初めて”だ。
私にとって、それは今、初めて聞くニュース。
ショックも、驚きも、ほんの十五秒で消える。
悲しみを記憶することすらできない。
つまり、私は永遠に“現在”に閉じ込められている。
過去がなく、未来を想うこともできない。
目の前の光景だけが、世界のすべて。
そして、その光景は、十五秒ごとに消滅する。
看護師が花を持ってきた。
白い百合。水の音。
その香りが部屋の空気を変える。
私は花を見つめる。
だが、すぐに視界が霧のように薄れる。
次に目を開けたとき、花はまだある。
けれど、「誰が持ってきたのか」は、もうわからない。
記憶のない世界では、因果が存在しない。
花は、ただ“咲いている”だけの存在だ。
それでも、なぜか美しい。
過去が消えても、美しさだけは消えない。
たぶん、それは感情の残響なのだ。
ベッドの横にノートがある。
表紙には、私の字でこう書かれている。
> 「私は記憶を持たない。
> だが、今この瞬間、私は生きている。」
何度も書いた文字だということが、字の跡でわかる。
筆圧が重なり、同じ線をなぞっている。
“昨日”の私が残した痕跡。
けれど、私はその“昨日”を知らない。
ページをめくると、同じ文が何十回も書かれている。
「私は記憶を持たない。
だが、今この瞬間、私は生きている。」
その繰り返しは、祈りのようでもあり、呪文のようでもあった。
――そうか、
この言葉を書くことが、
私にとって“生きる”という行為なのだ。
私はノートを閉じ、再び天井を見上げる。
光が、少しだけ黄昏色を帯びてきた。
夕方なのかもしれない。
だが、それを確かめる手段はない。
時間という概念が、私の中には存在しないのだから。
ふと、心の奥で微かなざわめきを感じる。
――誰かを待っている。
そんな気がした。
理由はない。
だが、胸の奥に温かい痛みのような感覚が残る。
感情だけが、記憶の代わりに私を形づくっている。
もし、私の脳のどこかに
“過去”の残滓がまだ残っているのだとしたら――
それはきっと、愛した誰かの声だろう。
誰かの笑い声。
あるいは、頬を撫でた風の感触。
それだけが、私の中で“繰り返される時間”なのかもしれない。
外の窓がわずかに開いている。
風が入ってくる。
その風の匂いが、どこか懐かしい。
私は目を閉じる。
音が遠のく。
心拍がゆっくりと波打つ。
世界がまた、霧の向こうに沈んでいく。
――また、目が覚めた。
光がまぶしい。
どこにいるのか、わからない。
白い天井。壁の時計の針が動いている。
けれど、不思議なことに、
その音が、どこか優しく聞こえた。
私は微笑む。
理由はわからない。
だが、その“わからなさ”の中に、
確かに、私の世界があった。




