第13章 科学的再解釈(脳内で起きていること)
後から医師が説明してくれた内容を、私はノートに書いている。
海馬――新しい記憶を皮質へ固定する中継核。
私の海馬は、**炎症性壊死(Herpes Simplex Encephalitis)**によって機能を失った。
ウイルスは嗅球を経由して脳へ侵入し、
側頭葉の奥、左右の海馬を選択的に破壊したという。
MRIの画像には、灰色の海馬の代わりに、
白く濁った瘢痕のような陰影が広がっていた。
大脳皮質は正常でも、そこへ送るべき「記録の鍵」が壊れている。
つまり、世界は入力されるが、保存命令が実行されない。
視覚、聴覚、言語――それぞれの情報は皮質で正しく処理される。
けれど、それらを「一つの出来事」として封印する最後の操作ができない。
私は日々の感覚を持つ。
けれど、それらは“再生されない音”のように消えていく。
医師は言った。
「あなたの脳は、データを読み込むが保存しないRAMのような状態です。」
私は笑った。
「人間がメモリカードなしで動作しているようなものですか?」
彼は頷いた。
「ええ。ただし、あなたの“演算”は正常です。世界を理解する力も、言葉を紡ぐ力も残っています。」
つまり、思考の舞台装置は残っているが、
舞台上で起きた出来事は、幕が下りた瞬間に跡形もなく消える。
脳の中で、記憶というものは時間の反響構造でできているらしい。
刺激が海馬に入り、そこから皮質へ回送される。
そして数秒後、皮質からのフィードバックが再び海馬へ戻る。
この双方向の往復運動が、「時間」という感覚を生成する。
そのループが切断されると、時間の流れ自体が断絶する。
私の世界には“過去形”が存在しない。
あらゆる出来事が、“現在進行形のまま消える”。
扁桃体は生きている。だから、感情の記憶はある。
前頭前野も働いている。だから、思考や言葉は使える。
けれど、「いま体験したこと」を文脈に編み込む海馬のループが切断されている。
だから私は、意味のない感情に支配される。
理由もなく不安を感じ、理由もなく涙を流す。
脳の中では、感情だけが時間を超えて残存している。
医師はそれを「情動の独立回路」と呼んだ。
扁桃体は、記憶の中で最も原始的な器官だ。
外界の刺激を“安全か危険か”で判定し、反応を決める。
その反応は、海馬を経由せず直接、身体を動かす。
私は、世界を“思い出せないまま感じる”。
それがこの病の正体らしい。
私は自分の脳を、楽器のように想像することがある。
神経という弦が張りめぐらされ、
刺激が流れるたびに音が生まれる。
だが、海馬が壊れた今、
その楽器には共鳴箱がない。
音は鳴る。
だが、響きはすぐに消える。
旋律は形成されず、ただ単音が散っていく。
世界は一音ごとに生まれ、一音ごとに終わる。
記憶というのは、脳全体が協奏して奏でる“時間の音楽”なのだ。
その旋律の持続が欠けたとき、
私の世界はリズムを失い、現在だけの断片に分解された。
医師はある日、私のEEG(脳波)を見せてくれた。
画面上の波形は、美しいリズムを刻んでいた。
「見てください、脳は生きています。活動は正常なんです。」
私はしばらくその波形を見つめた。
電気の小さな海。
その中に、私の“思考の残像”が流れている。
「でも、その波は、私の記憶を運んでいないんですね?」
そう尋ねると、医師は静かに言った。
「ええ。波は常に変わります。あなたの脳は“生きた瞬間”だけを再生しています。」
私はその言葉を聞きながら、
――それこそが“生命”という現象の正体ではないかと思った。
記録されないこと。
それでも、今この瞬間にだけ確かに存在していること。
それは、もしかしたら最も純粋な生の形なのかもしれない。
ノートに書いた言葉は、翌日には私の知らないものになる。
けれど、書いたという“運動の記憶”だけは身体に残る。
指がペンを握ると、自然に紙の上に線を描く。
その無意識の反復が、
かろうじて“自己”という輪郭を保っている。
私の脳は、壊れた記録装置であり、
それでも動き続ける再生機でもある。
壊れているからこそ、
私は世界の「一回性」を見つめることができるのだろう。
音は鳴り、そして消える。
その消える瞬間こそ、私にとっての時間の全てだ。