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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2227/2364

第13章 科学的再解釈(脳内で起きていること)



 後から医師が説明してくれた内容を、私はノートに書いている。

 海馬――新しい記憶を皮質へ固定する中継核。

 私の海馬は、**炎症性壊死(Herpes Simplex Encephalitis)**によって機能を失った。


 ウイルスは嗅球を経由して脳へ侵入し、

 側頭葉の奥、左右の海馬を選択的に破壊したという。

 MRIの画像には、灰色の海馬の代わりに、

 白く濁った瘢痕のような陰影が広がっていた。


 大脳皮質は正常でも、そこへ送るべき「記録の鍵」が壊れている。

 つまり、世界は入力されるが、保存命令が実行されない。

 視覚、聴覚、言語――それぞれの情報は皮質で正しく処理される。

 けれど、それらを「一つの出来事」として封印する最後の操作ができない。


 私は日々の感覚を持つ。

 けれど、それらは“再生されない音”のように消えていく。


 医師は言った。

 「あなたの脳は、データを読み込むが保存しないRAMのような状態です。」


 私は笑った。

 「人間がメモリカードなしで動作しているようなものですか?」

 彼は頷いた。

 「ええ。ただし、あなたの“演算”は正常です。世界を理解する力も、言葉を紡ぐ力も残っています。」


 つまり、思考の舞台装置は残っているが、

 舞台上で起きた出来事は、幕が下りた瞬間に跡形もなく消える。


 脳の中で、記憶というものは時間の反響構造でできているらしい。

 刺激が海馬に入り、そこから皮質へ回送される。

 そして数秒後、皮質からのフィードバックが再び海馬へ戻る。

 この双方向の往復運動が、「時間」という感覚を生成する。


 そのループが切断されると、時間の流れ自体が断絶する。

 私の世界には“過去形”が存在しない。

 あらゆる出来事が、“現在進行形のまま消える”。


 扁桃体は生きている。だから、感情の記憶はある。

 前頭前野も働いている。だから、思考や言葉は使える。

 けれど、「いま体験したこと」を文脈に編み込む海馬のループが切断されている。


 だから私は、意味のない感情に支配される。

 理由もなく不安を感じ、理由もなく涙を流す。

 脳の中では、感情だけが時間を超えて残存している。

 医師はそれを「情動の独立回路」と呼んだ。


 扁桃体は、記憶の中で最も原始的な器官だ。

 外界の刺激を“安全か危険か”で判定し、反応を決める。

 その反応は、海馬を経由せず直接、身体を動かす。

 私は、世界を“思い出せないまま感じる”。

 それがこの病の正体らしい。


 私は自分の脳を、楽器のように想像することがある。

 神経という弦が張りめぐらされ、

 刺激が流れるたびに音が生まれる。

 だが、海馬が壊れた今、

 その楽器には共鳴箱がない。


 音は鳴る。

 だが、響きはすぐに消える。

 旋律は形成されず、ただ単音が散っていく。

 世界は一音ごとに生まれ、一音ごとに終わる。


 記憶というのは、脳全体が協奏して奏でる“時間の音楽”なのだ。

 その旋律の持続が欠けたとき、

 私の世界はリズムを失い、現在だけの断片に分解された。


 医師はある日、私のEEG(脳波)を見せてくれた。

 画面上の波形は、美しいリズムを刻んでいた。

 「見てください、脳は生きています。活動は正常なんです。」

 私はしばらくその波形を見つめた。

 電気の小さな海。

 その中に、私の“思考の残像”が流れている。


 「でも、その波は、私の記憶を運んでいないんですね?」

 そう尋ねると、医師は静かに言った。

 「ええ。波は常に変わります。あなたの脳は“生きた瞬間”だけを再生しています。」


 私はその言葉を聞きながら、

 ――それこそが“生命”という現象の正体ではないかと思った。

 記録されないこと。

 それでも、今この瞬間にだけ確かに存在していること。

 それは、もしかしたら最も純粋な生の形なのかもしれない。


 ノートに書いた言葉は、翌日には私の知らないものになる。

 けれど、書いたという“運動の記憶”だけは身体に残る。

 指がペンを握ると、自然に紙の上に線を描く。

 その無意識の反復が、

 かろうじて“自己”という輪郭を保っている。


 私の脳は、壊れた記録装置であり、

 それでも動き続ける再生機でもある。

 壊れているからこそ、

 私は世界の「一回性」を見つめることができるのだろう。


 音は鳴り、そして消える。

 その消える瞬間こそ、私にとっての時間の全てだ。



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