表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2223/2364

第9章  残るのは感情の痕跡だけ


不思議なことがある。

 顔も、名前も思い出せない。

 それでも、“安心する相手”がいるのだ。


 看護師の声。ある香り。

 それに触れたとき、胸の奥にふっと力が抜けるような感覚が走る。

 記憶には残っていない。けれど、身体は確実に反応している。


 脳のどこか――おそらく、意識ではたどり着けないほど深い場所で、

 私は「安全だ」と判断している。


 医師が言った。

 「それは扁桃体の働きです。感情の記憶は、別の経路で残ります」


 たしかに、理屈でも言葉でもない何かが、私の中にはある。

 それが“人とのつながり”の残滓だとしたら、

 私に残された最後の「記憶」は、感情の名残ということになるだろう。


 香りが、世界の境界線を描く。

 朝のアルコールの匂い。消毒液の冷たさ。淹れたてのコーヒーの湯気。

 そのひとつひとつが、私を“今ここ”に留めてくれる。


 記憶のない私は、香りでしか空間を認識できない。

 無臭の場所では、方向を失う。

 空気が透明すぎると、自分という存在さえ薄れていく。


 ある看護師の香水の匂いだけは、はっきりとわかる。

 それは甘くて、落ち着いていて、どこか少しだけ苦い。

 彼女が近づくと、私の心拍数は自然と下がる。

 名前は思い出せない。だが、その匂いの中で私は“守られている”と感じている。


 脳のどこかが、確かに覚えている。

 名前や言葉は忘れても、“安心”の神経回路は残っている。

 私という存在の本質は、記憶ではなく、もしかしたら“反応”なのかもしれない。


 ある午後、窓の外で雨が降った。

 水がガラスを打つ音が、規則的に響いてくる。

 その瞬間、胸が熱くなった。

 涙が頬を伝って落ちた。


 悲しいわけではなかった。

 ただ、“懐かしい”という感情の輪郭を、思い出しただけだった。


 懐かしさ――それは対象を必要としない。

 何かを思い出すのではなく、「思い出すという感覚」そのものが先に立つ。

 記憶を失った私にも、その感覚の影だけは届いている。


 夜、病室が消灯される。

 小さなモニターが、壁に青い光の輪郭を映し出す。

 そのちらつきにも、私は反応する。

 静かな、規則正しいリズム。

 まるで母親の心音のように、私を落ち着かせてくれる。


 私は考えた。

 もしかすると、“安心”という感情こそが、

 記憶という構造の最初の礎なのではないか、と。


 そうであれば、私は記憶を失ったのではなく、

 その原始的な層にまで還ったということになる。


 感情は、言葉よりも古い。

 人間が言葉を持つ前から、

 生命は“快”と“不快”で世界を判断してきた。

 私の中にも、まだその判断基準が息づいている。


 脳の深部――扁桃体、視床下部、脳幹。

 そこでは、世界は善悪でなく、温度で分けられる。

 冷たい音、温かな光、柔らかな皮膚。

 私はそれらを通して、世界を感じ取っている。


 そして、感じたその瞬間こそが、私にとっての“今”になる。

 記憶がないということは、

 感情だけが時間をつなぐ唯一の糸になるということだ。


 ある日、誰かが私の手を握った。

 柔らかく、でもしっかりとした圧力。

 私は目を閉じた。

 不思議と、その感触だけは七秒を過ぎても消えなかった。


 その手の温もりは、皮膚の内側で何度も再生された。

 その温度の記憶こそが、今の私を世界につなぎとめている。


 言葉でも理屈でもない。

 触れた手の中に、私の“記憶”が生きている。


 医師が、モニターに映る私の脳波を指差して言った。


 「ここです。海馬ではなく、扁桃体。

  あなたが“誰か”に反応したときだけ、ここが強く光る」


 私はその光を見つめた。

 それは、小さな灯台のようだった。

 記憶の海は消えたままでも、

 心の奥にある灯だけは、確かに生きていた。


 思い出せない人々。思い出せない景色。

 だが、その人たちを“思うときの温度”だけは、確かに残っている。


 たぶん、それが私に残された、最後の“記憶”なのだろう。


 名前が消えても、心に波紋が広がる。

 その波が、今の私の世界を形づくっている。


 記憶のない私の宇宙では、

 時間の代わりに、感情が流れている。


 だから、私はまだ――ここにいる


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ