第7章 自分という連続の喪失
「海馬が損傷しています」
医師はそう言った。
診察室の空気が少し重く感じられたのは、そのせいだったのかもしれない。
海馬――記憶をつかさどる脳の深部にある器官だという。
出来事を“時間の流れ”に接続する中枢。
私の海馬は、炎症によってその働きを失ったらしい。
私はうなずいた。
だが、その行為を、自分がしたことを、
わずか八秒後にはもう思い出せなくなっていた。
医師からは何度も同じ説明を受けている。
にもかかわらず、聞くたびに“初めて知る”ことになる。
理解という行為が、泡のように、数秒で消えていくのだ。
私は“今、ここにいる”という実感だけで、生きている。
「私」という意識の輪郭は、時間とともに輪郭を失う。
まるで、鉛筆で描かれた線が、誰かの指でなぞられ、少しずつぼやけていくように。
鏡を見ても、そこに映る顔に“連続した自分”は感じられない。
昨日の私を思い出せないのではなく、
そもそも「昨日」という概念そのものが存在していないのだ。
私は、“今”しか持っていない。
過去は断片としてすら現れず、未来に向けた予感も立ち上がらない。
時間という文法を失った言語のように、私は生きている。
朝、カーテンを開ける。
陽の光が部屋の中に差し込んでくる。
それが春のものか、夏のものか、私は判断できない。
肌に触れる空気の温度の違いすら、比較する過去を持たない。
世界は常に、一枚の新しい写真のように、私の前に現れる。
壁の時計が、秒針を進めている。
カチッ、カチッという音が、一定のリズムを刻む。
だが、その音の間に、私は自分を失う。
七秒という短い間に、私は何度も生まれ、そして消えていく。
「私」という存在は、連続した線ではない。
七秒ごとに配置された点の集合に過ぎない。
それぞれの点と点を、つなげてくれる者はいない。
ノートを開く。
表紙には、見覚えのある文字が書かれていた。
「私は七秒前の私を知らない。
それでも、この瞬間、私は確かに存在している。」
自分の筆跡だ。
だが、それを書いた記憶は、どこにもない。
ページをめくると、同じ言葉が繰り返されていた。
まるで過去の自分たちが手を取り合って、
現在の私を囲んでいるかのようだ。
だが、彼らを私は知らない。
私であって、私ではない。
自己とは、時間の中で他者になっていく存在なのかもしれない。
ある日、看護師が言った。
「最近、少し笑うようになりましたね」
私は驚いた。
自分が笑うなんて、考えたこともなかった。
けれどそのとき、頬にわずかな動きを感じた。
温かく、柔らかい感覚。
それだけは、記憶に残らなくても、身体のどこかに刻まれていた。
思考や記憶が失われても、身体はそれを引き継いでいる。
指先の感覚、呼吸のリズム、
皮膚の下でかすかに緊張する筋肉。
それらが、七秒という闇をまたぐ、静かな記録媒体だ。
夜、私は鏡の前に立つ。
そこにいるのは、私のはずだ。
だが、その人物を私は知らない。
目の奥に、何かが灯っている。
それが“思い出”なのか、“願い”なのか、私は知らない。
もしかすると、それは記憶ではなく、感情の名残なのかもしれない。
海馬が壊れても、扁桃体は生きている。
感情は、記憶より深く、古く、強い。
だから私は、理由もなく、涙を流すことがある。
その涙の正体はわからない。
だが、それこそが、私という存在の断片なのだろう。
医師は言った。
「あなたは“今この瞬間”を生きている。
それは苦しみでもあるが、同時に特権でもある」
“特権”。
その言葉が、少し遠くで響いたように感じられた。
七秒の間だけ、私はその意味を考えた。
過去がないということは、罪も、後悔も、喪失も存在しないということ。
完全な赦しの中にいる。
だがその一方で、愛も、約束も、継続も持てない。
“私”とは、もはや一つの意識ではない。
七秒ごとに生まれ変わる観測の断片。
その連続を「私」と呼んでいるのは、
もしかしたら他人たちがそう記録しているからに過ぎない。
私はもう一度、鏡の中で微笑んでみた。
それが、今の私の“始まり”であり、
おそらく“最後”でもある。
光が、少しだけにじんで見えた。
次の瞬間、私はまた、新しい“今”の中にいた。
誰でもない私として。




