第15章 時の断絶:共有できない「記憶」
縁側に座って語る二人の会話は、次第に異質な次元へと変わっていった。
千代:「あの戦争のあと、呉は全部燃えたわ。お母さんは肺を患って……昭和30年に亡くなったのよ……」
福島:「いや、母さんは……私が出港する朝まで、玄関先で……見送ってくれたはずだ。今も生きているはずだ!」
千代:「兄さんの学帽、今も仏間にあるの。誰も処分できなかったから。遺品として…」
福島:「その帽子は……俺が鹿児島で無くしたはずだ。……あれは……どういうことなんだ?」
千代は、急に黙った。そして、福島の顔を、まるで初めて見るかのように、じっと見つめた。その瞳には、深い戸惑いと、かすかな疑念が混じっていた。
「……ねぇ、兄さん。あなたは、ほんとうに“うちの兄さん”なの?」
福島は、目を伏せたまま答えた。彼の声は、苦渋に満ちていた。
「……記憶は一致しない。でも、私は確かに“おまえの兄”だった。昭和20年の4月6日まで。その後、私は別の時間を……いや、別の“宇宙”を生きてしまったんだ」
千代は、静かに言った。その声には、深い悲しみと、しかし不思議なほどの受容が込められていた。
「だったら、あなたは……この家の兄さんじゃないのよ。だって、うちの兄さんは、戦争で死んだんだもの……」
彼女は、言葉を切った。そして、ゆっくりと、震える手で福島の手を握る。
「でも……でもね。**“兄さんだったかもしれない誰か”**に、こうして会えるなんて……私は、もうそれだけで……」
千代の瞳から、再び涙が溢れ落ちた。それは、80年間、胸の奥に秘めていた兄への想い、そして、あり得たかもしれない未来への、奇妙な再会だった。
「兄さん、お帰りなさい」
福島は、涙をこらえきれずに言った。
「……ただいま。遅くなったな……」
夕陽が坂の街を朱に染める。彼のいない人生を生き抜いた、“妹”の姿があった。そして今、その“妹”の世界の中で、自分は兄として確かに在った。そのことが、福島を静かに解放していった。