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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17
2217/2379

第3章 モノローグ:海馬の失われた時間


また目が覚めた。

 天井が白い。目に刺すような光が、意識の奥をかき乱す。


 ここは……どこだ? そう問いかけた瞬間には、もう答えが霧の中に消えていく。壁に掛かった時計の針だけが、容赦なく時間を刻んでいる。


 おそらく、病院だ。そう思うのは、白い天井と無機質な空気のせいだろう。だが確信はない。次の瞬間には、すべての輪郭があいまいになり、思考は霧の中を彷徨い始める。


 音だけが、妙に鮮明だ。時計の秒針が一つ音を立てた。その「カチリ」が、今の自分のすべてを物語っているように思えた。


 扉が開いた。

 誰かが入ってくる。女だ。白衣を着て、何かを手に持っている。


 「おはようございます」


 その声に、思わず微笑みで応じる。なぜか懐かしさを感じる声だ。だが、何が懐かしいのかは思い出せない。


 一瞬、胸の奥に温かいものが灯る。しかし、それも長くは続かない。彼女が部屋を出た瞬間、そのぬくもりはどこかへ消えていった。扉の閉まる音が、やけに重たく響いた。


 再び、静寂――

 残されたのは、自分と、降り注ぐ光だけだった。


 まるで世界がリセットされるたびに、自分の存在までもが初期化されていくような錯覚。


 医者の言葉が頭のどこかに引っかかっている。


 ――あなたの海馬は、損傷しています。

 ――新しい記憶を保持することができません。


 何度も聞いた言葉なのだろう。けれど、今の自分にとっては初耳だ。驚きも悲しみも、すぐに霧のように消える。悲しみを記憶することすらできないのだ。


 つまり、自分は“現在”という名の檻に閉じ込められている。過去もなく、未来を想う余地もない。ただ、目の前の景色だけが“世界のすべて”で、それすら十五秒ごとに霧散する。


 看護師が花を持ってきた。白い百合。水音が静かに響く。花の香りが空気をわずかに変える。


 しばらく、じっと花を見つめていた。だが視界が再び霞む。目を開けたとき、花はまだそこにある。だが、それを誰が持ってきたのかは、もうわからない。


 記憶のない世界では、因果が存在しない。

 花はただ、そこに“ある”だけだ。


 だが、それでも美しいと感じた。

 たとえ過去が消えても、美しさだけは残る。

 たぶん、それは感情の残響なのだ。


 ベッドの横にノートがある。表紙に書かれている文字が目に入る。自分の字だ。


私は記憶を持たない。

だが、今この瞬間、私は生きている。


 何度も書いた文字らしい。筆圧の跡が幾重にも重なっている。昨日の自分が残した証。それを自分は知らない。


 ページをめくると、同じ言葉が幾十回と繰り返されていた。

 それは祈りのようであり、呪文のようでもあった。


 ――なるほど。

 この言葉を書くことこそが、

 自分にとっての“生きる”という行為なのかもしれない。


 ノートを閉じ、再び天井を見る。光が少しだけ黄昏に染まっていた。夕方かもしれない。だが、それを確かめる術はない。自分の中に時間の概念が存在しないのだから。


 ふと、胸の奥に小さなざわめきを感じた。

 ――誰かを待っている。


 そんな気がした。理由はわからない。

 だが、確かに、心の奥に温かい痛みのようなものが残る。


 記憶ではない。感情だけが、自分を形づくっている。


 もし脳のどこかに“過去”のかけらが残っているとすれば、それはきっと、愛した誰かの声だ。誰かの笑い声。あるいは、頬を撫でた風の感触。


 それだけが、自分の中で繰り返される時間なのかもしれない。


 窓がわずかに開いている。風が部屋に入ってきた。

 その風の匂いが、妙に懐かしい。


 私は目を閉じた。

 音が遠のく。心拍が静かに波打つ。

 世界がまた、霧の向こうに沈んでいく。


 ――また目が覚めた。

 光がまぶしい。ここがどこか、わからない。

 白い天井。時計の針が、変わらず動いている。


 だが、不思議とその音が優しく聞こえた。

 私は微笑む。理由はない。


 けれど、その“わからなさ”の中に、

 確かに、私の世界があった。

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