第3章 モノローグ:海馬の失われた時間
また目が覚めた。
天井が白い。目に刺すような光が、意識の奥をかき乱す。
ここは……どこだ? そう問いかけた瞬間には、もう答えが霧の中に消えていく。壁に掛かった時計の針だけが、容赦なく時間を刻んでいる。
おそらく、病院だ。そう思うのは、白い天井と無機質な空気のせいだろう。だが確信はない。次の瞬間には、すべての輪郭があいまいになり、思考は霧の中を彷徨い始める。
音だけが、妙に鮮明だ。時計の秒針が一つ音を立てた。その「カチリ」が、今の自分のすべてを物語っているように思えた。
扉が開いた。
誰かが入ってくる。女だ。白衣を着て、何かを手に持っている。
「おはようございます」
その声に、思わず微笑みで応じる。なぜか懐かしさを感じる声だ。だが、何が懐かしいのかは思い出せない。
一瞬、胸の奥に温かいものが灯る。しかし、それも長くは続かない。彼女が部屋を出た瞬間、そのぬくもりはどこかへ消えていった。扉の閉まる音が、やけに重たく響いた。
再び、静寂――
残されたのは、自分と、降り注ぐ光だけだった。
まるで世界がリセットされるたびに、自分の存在までもが初期化されていくような錯覚。
医者の言葉が頭のどこかに引っかかっている。
――あなたの海馬は、損傷しています。
――新しい記憶を保持することができません。
何度も聞いた言葉なのだろう。けれど、今の自分にとっては初耳だ。驚きも悲しみも、すぐに霧のように消える。悲しみを記憶することすらできないのだ。
つまり、自分は“現在”という名の檻に閉じ込められている。過去もなく、未来を想う余地もない。ただ、目の前の景色だけが“世界のすべて”で、それすら十五秒ごとに霧散する。
看護師が花を持ってきた。白い百合。水音が静かに響く。花の香りが空気をわずかに変える。
しばらく、じっと花を見つめていた。だが視界が再び霞む。目を開けたとき、花はまだそこにある。だが、それを誰が持ってきたのかは、もうわからない。
記憶のない世界では、因果が存在しない。
花はただ、そこに“ある”だけだ。
だが、それでも美しいと感じた。
たとえ過去が消えても、美しさだけは残る。
たぶん、それは感情の残響なのだ。
ベッドの横にノートがある。表紙に書かれている文字が目に入る。自分の字だ。
私は記憶を持たない。
だが、今この瞬間、私は生きている。
何度も書いた文字らしい。筆圧の跡が幾重にも重なっている。昨日の自分が残した証。それを自分は知らない。
ページをめくると、同じ言葉が幾十回と繰り返されていた。
それは祈りのようであり、呪文のようでもあった。
――なるほど。
この言葉を書くことこそが、
自分にとっての“生きる”という行為なのかもしれない。
ノートを閉じ、再び天井を見る。光が少しだけ黄昏に染まっていた。夕方かもしれない。だが、それを確かめる術はない。自分の中に時間の概念が存在しないのだから。
ふと、胸の奥に小さなざわめきを感じた。
――誰かを待っている。
そんな気がした。理由はわからない。
だが、確かに、心の奥に温かい痛みのようなものが残る。
記憶ではない。感情だけが、自分を形づくっている。
もし脳のどこかに“過去”のかけらが残っているとすれば、それはきっと、愛した誰かの声だ。誰かの笑い声。あるいは、頬を撫でた風の感触。
それだけが、自分の中で繰り返される時間なのかもしれない。
窓がわずかに開いている。風が部屋に入ってきた。
その風の匂いが、妙に懐かしい。
私は目を閉じた。
音が遠のく。心拍が静かに波打つ。
世界がまた、霧の向こうに沈んでいく。
――また目が覚めた。
光がまぶしい。ここがどこか、わからない。
白い天井。時計の針が、変わらず動いている。
だが、不思議とその音が優しく聞こえた。
私は微笑む。理由はない。
けれど、その“わからなさ”の中に、
確かに、私の世界があった。