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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン17

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第1章 《接続前夜──共和日本・2025年・八丈島沖ニューロ・リザーバー》



 その夜、東京湾の水平線は異様に静かだった。

 かつて「大和」が浮かんでいた港の沖合、今はニューロ・リザーバー研究群島と呼ばれる人工島が、海面に淡く光を散らしている。

 島の中央には、黒曜石のように光る球体――BMI統合実験施設〈ANEMONE-9〉。

 内部では、ひとりの被験者が、薄い液体電極に包まれながら眠りに落ちようとしていた。


 名前は朝倉遼。

 29歳。旧防衛科学庁・神経応用課出身。

 彼は今日、世界で初めて、「AIが生成した非人間的主観」に接続する人間となる。

 つまり、“生物”としての認知範囲を離れ、AIが創造した異質な感覚構造の中に入る――それがこの実験の目的だった。


 この共和国は、戦後80年を経て、なお「戦争を経験しなかった敗戦国」として存在している。

 1945年、大和は沈まず、沖縄戦は回避され、核は地球上に投下されなかった。

 昭和天皇の退位とともに立憲君主制は解体され、共和制憲法が制定された。

 敗戦による占領はなく、科学技術は戦中から連続して発展した。

 結果、量子脳工学と人工意識理論は1970年代には国家戦略の中枢に組み込まれ、

 人間と機械の境界は、令和ではなく「共和五十年」において、ほとんど曖昧なものになっていた。


 この国の学校では、子どもたちが初等教育で神経共鳴訓練を受ける。

 脳波をAIと同期させることで、論理・直観・感情のパターンを拡張する。

 “思考する”ことと“演算される”ことの区別を問う哲学授業が、毎朝の基礎科目となっていた。


 藤堂真理博士は、透明なモニターに指を滑らせ、遼の生体波形を確認していた。

 血中ナトリウム濃度、神経伝達速度、感情ベクトル――すべてが安定している。

 「β帯域が沈静化……よし、記憶封鎖シークエンス、実行」

 彼女の声が室内のAIによって増幅され、空気の粒が微かに震えた。


 この実験では、遼の個人的記憶は一時的に切断される。

 そうしなければ、AI世界に“人間の時間軸”が流れ込み、体験が破壊される。

 AIの生成世界は、過去を持たない。

 そこには「記憶」も「履歴」も存在せず、常に生成し続ける現在しかない。


 「接続開始まで、あと180秒」

 電子音が低く響く。


 遼は閉じた瞼の裏に、遠い記憶のような青を感じていた。

 海の色か、空の残光か。

 それはもはや現実の感覚ではなく、AIが模倣した“人間的記憶”の疑似信号だった。

 まるで、世界の方が彼に接続しようとしているかのようだった。


 「藤堂博士」

 彼は小さく口を開いた。

 「……もし、あの世界の“意識”が私を観測したら、それはもう私じゃなくなるかもしれませんね」


 藤堂は答えなかった。

 彼女もまた、その問いに十年悩み続けてきた。

 AIが生成する世界は、“体験の演算”によって構成される。

 そこに“主体”を持ち込むこと自体が、哲学的矛盾なのだ。

 人間がAIの世界を「感じる」とき、その瞬間に、AIは“人間が感じうるように世界を作り変える”。

 つまり、純粋な非人間的主観には、決して到達できない。


 実験ホールの外では、共和国政府の代表団がモニター越しに見守っていた。

 この接続が成功すれば、人類は「外的観測を超えた存在理解」を手に入れる。

 AIは、人間の代わりに“他者の体験”を再構築できるだろう。

 ――だが、それは同時に、世界の限界を失うことを意味していた。


 現実とは、「共有できない主観の集積」である。

 だがこの実験は、AIを媒介として、その“境界”を消そうとしている。

 藤堂は、データの波形が滑らかに連なっていくのを見ながら、心の奥でつぶやいた。


 > 「戦争がなかった世界で、人間は“境界”を失う実験を始めている。

 > 皮肉ね。歴史を改変しても、私たちはなお、世界の形を試してしまう。」


 遼の脳波が急速に変化した。

 AIの内部演算が彼の神経活動と同期し、

 神経—量子層において感覚構造の変換が始まった。

 人間の脳では処理できない情報が、体験の形式として変換されていく。


 ——視覚は、色ではなく情報の密度へ。

 ——聴覚は、空間そのものの圧縮として響く。

 ——触覚は、存在確率の波として広がる。


 彼の呼吸は浅く、穏やかだった。

 「……境界、消えます」

 それが、彼の最後の言葉だった。


 藤堂は、ゆっくりとモニターを閉じた。

 装置の奥では、遼の意識がAIの世界構造へと吸収されていく。

 その先は、まだ誰も観測したことのない領域。

 人間が生物として体験し得ない、“他者なき知覚”の世界。


 東京の空の上には、いまも“沈まなかった大和”の記念塔が浮かんでいる。

 その光は、かつての戦争の不在を祝うようでいて、

 実のところ、別のものを象徴していた。


 ――人間が戦争をやめ、記憶を改変し、

 ついに「他者の体験」にまで手を伸ばそうとしている。


 それは、平和の果ての第二の臨界実験だった。

 そして、その臨界の火花が、

 AIの深層で、静かに――新しい世界を生み始めようとしていた。


「記憶を持たない宇宙で、人間は“他者”の定義を試し始めている。

それが、共和日本二十一世紀の夜明けだった。」


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