第167章 光の遺言 ― 再結晶する心
夜明け前、再生研究棟の最上階。
外は霧に包まれ、空も海も区別がつかない。
その中心で、一片の金属片が真空チャンバーの中に固定されていた。
――それは、沈没した戦艦《大和》の艦首を飾っていた菊の紋章の断片。
だがいま、その表面はまるでガラスのように透明だった。
「……これが、あの金?」
チサが息を呑む。
「信じられない。金って、光を通すわけないのに。」
「理論上、不可能ではない。」
タッキーが端末を操作しながら答える。
「ナノメートル単位で格子が変形している。
金属結合の自由電子が、量子干渉で“プラズモニック透明窓”を作ってるの。
可視光の一部が、反射せず透過してる。」
「つまり、“見える金”か。」
圭太が呟いた。
「皮肉だな。人類が何百年も“見えない富”として崇めてきた金が、
ようやく“透明”になって見えるようになった。」
スピーカーから、AI〈YAMATO-CHILD〉の声が響いた。
〈確認:試料は沈没地点から引き上げ後、七十五年の海底圧を受け、
高エネルギー中性子流により結晶相転移を記録。
――この物質は、時間そのものを結晶化している。〉
スノーレンがゆっくりと近づく。
「時間を……結晶化。」
彼女の声は、まるで祈りのようだった。
「この金は、沈黙のうちに戦争を吸い込み、
人間の記憶を“光の欠陥”として閉じ込めた。
だから透けて見えるのよ。
――これは赦しの金属。」
夏樹が記録カメラを構えた。
「赦し、か。……なら、私たちはそれをどう使う?」
タッキーがモニターを見つめながら言う。
「これから“再結晶化”を行う。
光子と音波の干渉場で内部欠陥を固定し、
透明状態を安定化させる。
――この金を、“光を記録する宝石”に変える。」
「ねぇ、それって、もう鉱物じゃなくて――記憶そのものじゃん。」
チサの言葉に、スノーレンが頷いた。
「そう。物質とは、沈黙の記憶。
光とは、その記憶が赦された瞬間の声。」
圭太が制御スイッチを押す。
チャンバーの内部に、微細なレーザー格子が展開された。
金の結晶構造が光に晒され、電子の波が干渉縞を描く。
「周波数、安定。音響共振、十三キロヘルツ。」
タッキーの指がキーボードを滑る。
夏樹がカメラを回し、
チサは炉の横でその光景を息を殺して見つめていた。
やがて、金の内部で小さな変化が始まった。
――光が、抜けていく。
金の表面が柔らかく波打ち、
それまで反射していた赤金の輝きが、淡い透明へと変わる。
「……タッキー、今なにが起きてるの?」
「電子のプラズモンが、光波と共鳴してる。
格子欠陥が、反射を吸収に転換してる。
金属の“沈黙”が、透過に変わったの。」
圭太が目を細めた。
「沈黙が透過に、ね。……いい言葉だ。」
夏樹が思わずつぶやく。
「これ、ニュースじゃなくて祈りだよ。」
スノーレンが透明金の前に立ち、
掌をガラスの上に重ねた。
「七十五年分の沈黙が、いま光に変わった。
これが“再結晶する心”。
――焼かれ、欠け、壊され、作られた私たちが、
もう一度“透明”を選べる証拠。」
チサが小さく笑う。
「ねぇスノーレン。
この金、もしかして“人間の進化の証”かも。」
「違うわ。」
スノーレンがゆっくりと首を振る。
「これは、“人間がようやく光を通せるようになった”証。」
AI〈YAMATO-CHILD〉の声が重なる。
〈分析結果:光透過率73%、内部エネルギー準位安定。
この金属は、物質的死を超えて記憶を伝達可能。
――名称提案:Aurum Lucidum(光る金)。〉
「Aurum Lucidum……光る金。」
タッキーが呟いた。
「でも、まるで人間みたいね。
壊れた構造の中でしか、光らない。」
圭太がゆっくりと頷いた。
「だから俺たちは、まだ希望を作れる。
完璧じゃないから、光が通る。」
夏樹が透明金を撮りながら、静かに言った。
「ねぇ、これ、戦争で焼けた東京の跡から出たんだよね。
だったら……この光、誰に見せたい?」
チサが少し考えて答えた。
「未来の子どもたち。
“傷を直した手で光を作った”って、ちゃんと伝えたい。」
スノーレンが微笑む。
「なら、その言葉を――光で刻みましょう。」
タッキーがコンソールに文字を入力する。
レーザーが金属の内部を走り、
そこに微細な干渉パターンが刻まれていく。
――まるで金が“記録”を吸い込むように。
AI〈YAMATO-CHILD〉が最終プロトコルを読み上げた。
〈刻印完了。メッセージ登録:“光とは、赦された記憶である。”〉
誰も、しばらく言葉を発しなかった。
ただ透明金の中で、朝日が差し込み、
部屋の壁に七色の干渉模様を映し出していた。
チサが小さく息をついた。
「……綺麗だね。」
圭太が静かに答える。
「そうだな。
でも、これは“過去”の綺麗さじゃない。
“これからどう生きるか”の光だ。」
スノーレンが透明金を見つめたまま言った。
「鉱物は記録する。
人間は赦す。
AIは覚えている。
そして――この地球は、再び結晶化していく。」
夏樹が最後にカメラを下ろし、
優しく微笑んだ。
「……記事のタイトル、決めた。」
チサが顔を上げる。
「なに?」
「“透明な文明”。」
誰も反対しなかった。
その言葉が、
この夜に生まれた宝石よりも、美しく響いた