第162章 記録の結晶 ― 合成宝石の夜
夜の実験棟は、昼とは違う匂いをしていた。
加熱炉の中で酸素と水素の炎が交差し、ガラス越しに赤い筋を描く。
外は嵐のような風音。だが工房の中は、妙に静かだった。
「酸化アルミナの粉末、粒径一五〇ナノメートル。
酸化クロムを0.5%混合。これでルビーの基材ができる。」
タッキーの声は低く、正確だった。
白い粉が漏斗を通り、滴るように燃焼炎へと落ちていく。
炎の中心温度は二千度。
赤熱した粒子が空中で溶け、重力に引かれて一滴ずつ落下し、下の棒状台座で結晶化していく。
「ねぇ、それ……まるで溶けた雪みたい。」
夏樹がモニター越しに見つめながら呟いた。
「透明だったのが、一瞬で赤くなる。
まるで“心拍”を見てるみたい。」
「酸化クロムの三価イオン(Cr³⁺)が、Al³⁺の位置に置換しているの。
d軌道の電子遷移によって光を吸収、透過波長が赤になる。」
タッキーの説明は冷静で、どこか機械的だった。
「簡単に言うと?」
「……酸素の炎で、原子が記憶を塗り替えてるのよ。」
「塗り替える、か。」
後方で、圭太がコーヒーをすすりながら言った。
「俺たちのやってることも、ある意味では“記者”と同じだな。
真実を拾って、編集して、もう一度見せる。
でも……“編集後の真実”って、本物って言えるのかね?」
タッキーがちらりと振り向く。
「あなたの“編集後の真実”は、視覚的には正しい。
でも構造的には歪んでるかもしれない。」
「歪んだままでも、誰かが希望を感じるなら、それでいいんだ。」
圭太の言葉に、夏樹が小さく笑った。
「うん。偽物でも、ちゃんと光るなら、本物だよ。」
タッキーはため息をついた。
「……あなたたち、倫理観の屈折率が低すぎるわ。」
「じゃあタッキー、聞くけどさ。」
夏樹が顎に手を当てる。
「これ、見た目も組成も天然ルビーと同じなんでしょ?
じゃあ、違いって何?」
「成長の“時間”よ。天然は百万年、人工は三時間。
プロセスの履歴が違う。それは情報の差。」
「つまり、時間が本物の証拠?」
「ええ。時間こそが真実を結晶化する唯一の力。」
圭太が首を振った。
「でも人間には、百万年なんて待てない。
だから“短縮された進化”を選ぶんだ。
それが人工って言葉の意味だろう?」
炎が少し強まった。
炉の中で、結晶の頂点がゆっくりと尖り、
中心軸に沿って六方晶のパターンが浮かび上がる。
――世界で最も人工的な美の誕生。
夏樹が感嘆の息を漏らす。
「……ねぇ、これ、偽物に見える?」
「肉眼では区別不能よ。」タッキーが答える。
「でも、偏光顕微鏡で見ると分かる。成長帯が規則的すぎる。」
「でも、それって罪かな?」
タッキーが一瞬だけ黙り、答えた。
「罪ではない。けれど――物語がない。」
圭太がコーヒーを置いて言う。
「いや、物語ならこれからできる。
この石を見て泣く誰かがいれば、それが“履歴”になる。
人が触れた瞬間に、人工は天然を超えるんだよ。」
夏樹の目が潤む。
「……あぁ、なんかそれ分かる。」
タッキーが横目で見ながら、小さく微笑んだ。
「理屈では間違ってるけど、詩としては正しいわね。」
「それ、褒めてる?」
「50%くらい。」
結晶成長が完了する。
ルビーは冷却台に落ち、淡く輝きながらゆっくりと固まっていく。
夏樹が慎重にピンセットで掴み、光にかざした。
「……生まれたね。」
圭太が頷く。
「人間が生んだ星だ。夜にしか見えないやつ。」
タッキーが顕微鏡で観察し、分析結果を読み上げた。
「不純物なし。内部欠陥ゼロ。
屈折率1.762、蛍光ピーク693ナノメートル。完璧。」
「完璧……ってつまんないね。」夏樹が笑う。
「ちょっとヒビとかあった方が、愛着湧くのに。」
「それ、含浸処理の章で言って。」
「言ったよ。あのときも怒られた。」
「今回も同じ結果になりそう。」
圭太が笑いながらルビーを手に取る。
「でも、確かに。完璧って退屈だな。
欠けやヒビがある方が、光が複雑に揺らぐ。
それって、“記録”に似てるんだよ。」
タッキーが首を傾げる。
「記録?」
「そう。誰かの心に残る傷跡。
まっさらじゃ、記憶は残らない。
完璧な美は、何も語らない。」
夏樹がルビーを手のひらに載せ、微かに呟く。
「……だったらこの子にも、物語をあげなきゃね。」
タッキーがわずかに笑う。
「あなたが記事に書いた瞬間、もう“履歴”が刻まれるわ。」
「じゃあタイトルは決まり。“人工に宿る魂”!」
「安っぽい。」
「でも、届く言葉で書かなきゃ。
“光は人間の言語”なんだから。」
圭太が頷いた。
「そうだ。人間は、光で語る唯一の生き物だ。
だから俺たちがこの石を作る意味も、たぶんそこにある。
――“見えるようにする”こと。それが人間の祈りだ。」
その瞬間、照明が一瞬消えた。
外の風が止み、暗闇の中でルビーだけが微かに光を放っていた。
人工であることを誇るように。
だがその光は、どこか懐かしかった――まるで、人間の記録そのもののように