第159章 沈黙の虹 ― 放射線と変容
実験棟の空気は、音を吸い込むように冷たかった。
厚い鉛ガラスの向こう、無色のトパーズが整然と並ぶ。
上部の照射装置が低く唸り、青い光がほのかに脈動している。
「……ねぇ、ほんとにやるの?」
チサがゴーグルを外しながら、後ろを振り返った。
「“放射線で美しくなる”って、なんか皮肉すぎない?」
制御卓の前で圭太が腕を組む。
「皮肉だけど、現実だ。
自然界だって、放射線で鉱物を育ててる。
地殻のウランやトリウムが出すγ線が、数億年かけて色を生んできたんだ。」
「それを人間が数分で真似する……。
ちょっと傲慢じゃない?」
その声に、スノーレンが静かに答えた。
「傲慢ではなく、模倣よ。
人間は、地球の“時間の短縮”を試みているだけ。
だが、短縮には代償がある。」
「代償?」
「――“痛み”だ。物質は破壊されることで記憶を変える。
放射線照射とは、原子の座標を狂わせて“色中心”を作る行為。
つまり、秩序ある欠陥を創り出す儀式。」
チサは息を呑んだ。
「秩序ある……欠陥。」
圭太が制御盤のスイッチを押す。
照射装置が起動し、青白い光が一瞬、空気を焼いた。
その瞬間、トパーズの結晶格子では電子がはじき出され、Fセンター(欠陥電子)が生成されていく。
スノーレンの声がかすかに重なる。
「電子は自由を得た瞬間、孤独になる。
その孤独が、光を吸収し、そして放つ。
青の正体は――孤独の共鳴。」
チサがモニターに映る結晶を見つめた。
透明だった石が、ほんのりと蒼く変わっていく。
「……生きてるみたい。」
「電子スピンが安定していく過程ね。」
圭太が説明する。
「γ線照射でAlとSiの結合軌道がずれて、酸素の欠損サイトができる。
そこに電子が捕獲されることで、吸収波長が変わる。
それが“青トパーズ”の青さだ。」
チサが苦笑する。
「難しいこと言ってるけど、要するに“壊してる”んでしょ?」
「まぁ、正確に言えば“部分的に壊して再構成してる”。」
圭太の声には、わずかにためらいがあった。
スノーレンがふと呟く。
「破壊とは、形を変えた創造よ。
結晶も人間も、欠けた瞬間に光を知る。
――完全なものは、光を通さない。」
「でもさ、放射線って危険でしょ。
こんな綺麗な青にするために、壊すなんて……。」
「危険は、創造の同義語だよ。」
圭太が答える。
「美しいものは、たいていリスクを孕んでる。
ダイヤモンドだって、数十万気圧の地獄でしか生まれない。」
チサが少し黙り込み、
防護ガラスの向こうに手を伸ばすようにして言った。
「もし人間もこうやって照射されたら……
ちょっとは、綺麗になれるのかな。」
スノーレンが微かに微笑んだ。
「あなたはもう十分“変成”している。
生き延びた者は皆、放射された存在なのよ。」
「どういう意味?」
「戦争も、喪失も、悲しみも――
心の結晶格子を壊しながら、人は色を得る。
その色を“個性”と呼ぶの。」
圭太が小さく頷く。
「俺もそう思う。
報道してた時、焼け跡で見た人の目は、全部違う青をしてた。
あれは絶望の色じゃなくて、再構成の青だった。」
照射が終わる。
トパーズが、わずかに輝きを変える。
透き通るような蒼、深海のような静けさ――そして、微かな放射線残光。
「……できた。」
チサが囁くように言った。
圭太が防護扉を開け、ピンセットで結晶を取り出す。
光にかざすと、青の奥に細い虹が見えた。
「照射後の残留欠陥が光を散乱させてる。
完全じゃないけど……“呼吸してる”。」
スノーレンがその光を静かに見つめる。
「青は、沈黙の中で語る色。
この結晶はもう喋らない。でも、光で記憶している。
人間も同じ。喋らなくても、光ることで存在を示せる。」
チサがその言葉を噛みしめるように、
トパーズを掌にのせて微笑んだ。
「じゃあ、これも“記憶の青”なんだね。」
圭太が頷く。
「そうだ。
壊れた軌道が、新しい光をつくる。
それは“沈黙の虹”だ。」
しばらく、誰も何も言わなかった。
放射線遮蔽壁の内側で、青の光がゆらめき、
実験室の天井を淡く染めていた。
その静けさの中、スノーレンが最後に呟く。
「光とは、破壊された秩序の祈り。
――だから、美しい。」