第157章 静脈の光 ― 含浸と赦し
再生工房の奥、照明を絞った小さな実験室。
空気は静止しているようで、樹脂の甘い匂いが漂っていた。
ガラス皿の上には、細かい亀裂が走った緑色の結晶――エメラルド。
その前で、タッキーが顕微鏡を覗き込みながら呟く。
「内包物が多すぎる……。
天然らしさは残るけど、これじゃ光が乱反射して“死んだ緑”になる。」
透明樹脂の注入器を手にしながら、彼女の声には機械のような精密さがあった。
「死んだ緑って、詩的じゃない?」
背後から夏樹が覗き込む。
軽い声と明るい笑顔。しかしその瞳は、意外なほど観察的だった。
「私は、ちょっとヒビがある方が好き。
光が“迷って”る感じがするでしょ?」
「迷光(stray light)ね。」
タッキーが冷ややかに返す。
「散乱光が増えると、輝度が下がる。
屈折率の差が0.1以上になると、完全な透過は不可能。」
「数字で言わないでよ。迷うって言葉の方が、なんか“人間”っぽいじゃん。」
「私は鉱物を人間扱いしない主義。」
タッキーが短く言い切ると、
奥の影からスノーレンの低い声が響いた。
「だが人間こそ、鉱物の模倣者だ。」
彼女――スノーレンは、白衣に深緑のマントを羽織り、
まるで時代の外から来た賢者のようだった。
「人は、亀裂を恐れる。だが結晶は、亀裂に光を宿す。
欠けた面でしか、世界は反射しない。」
夏樹が微笑みながら頷く。
「それ、いい言葉。――“欠けた面でしか、世界は反射しない。”」
タッキーが少し眉をひそめた。
「でも、研究としては埋めないわけにいかない。
この欠陥(defect)は構造的に脆い。外力で崩壊する。」
「だからこそ、埋めるのではなく“満たす”のよ。」
スノーレンがゆっくりと歩み寄り、透明樹脂のボトルを指先で撫でた。
「この液体が結晶と同じ屈折率――1.58前後を持つのは偶然ではない。
世界は、欠けたものを似たもので癒やすように設計されている。」
タッキーはしばらく沈黙し、注射器をセットした。
真空チャンバーが作動する。
「減圧→注入→加圧……これで、毛細管現象が内部のヒビに樹脂を引き込む。」
モニター上で、液体がひび割れに沿って静かに流れ込む映像が見える。
緑の中に、透明な線が枝のように伸びていく。
夏樹が呟く。
「まるで血管みたい。」
「正確には“静脈”ね。」タッキーが応える。
「fracture filling、つまり“破断部充填処理”。
でも、これは化粧に近い。中身は変わらない。」
スノーレンが微かに笑った。
「化粧は、赦しの形でもある。
人は傷を隠すことで、再び他者に会う勇気を得る。
それは真実を偽る行為ではなく、“再び光を受ける”ための儀式だ。」
「赦し、ね……」夏樹がぽつりと呟いた。
「タッキー、これってズルいと思わない?
本物の傷を隠して“完璧”を装うのって。」
タッキーは一瞬、言葉を止めた。
顕微鏡のピントを合わせる指が、微かに震える。
「……そうね。
だけど、欠陥のままじゃ構造が崩壊するの。
私たちは、美よりもまず“存在の継続”を優先する。
赦しじゃなく――延命よ。」
スノーレンがその言葉に、淡い微笑を返した。
「延命もまた、赦しの一種だ。
時間をもらうことは、存在の猶予を得ることだから。」
やがて真空チャンバーの音が止まり、照明が落ちた。
エメラルドの中で、ヒビが淡く光っている。
それは欠けを隠す光ではなく、欠けの形に沿って走る光の脈だった。
夏樹がそっと息を呑んだ。
「……これ、埋まったっていうより、“癒えた”って感じ。」
タッキーが小さく頷く。
「光学的にも理論的にも、屈折率が整った。
散乱が減って、透過率が16%上昇。
でも……美しさは数値で説明できないわね。」
スノーレンがゆっくりと近づき、結晶を指でなぞる。
「この石は、割れたまま光を通している。
完全ではないからこそ、透ける。
赦しとは、光を通すこと――隠すことではない。」
夏樹が顎に手をあてて言う。
「人間関係にも“含浸処理”っているのかな。」
タッキーが皮肉っぽく笑う。
「あなたの過去の恋愛データなら、たぶん真空でも埋まらない。」
「うわ、冷た~い! でも当たってる!」
スノーレンが小さく微笑んだ。
「人間の心は粘性が高い。
だが、時間という溶媒があれば、どんなひびも流れ込むものだ。」
室内に沈黙が降りる。
エメラルドが静かに光を放つ。
その光は、まるで赦しの呼吸のように見えた。
タッキーがモニターを閉じ、ふと呟く。
「……欠けを埋めるたびに、私はいつも“嘘をついてる気”がする。」
スノーレンがその肩に手を置いた。
「嘘ではないわ。
あなたは“欠けを守っている”。
それこそが、最も科学的な優しさ。」
夏樹が笑う。
「いいね、それ。次の記事のタイトルにしよう。“科学的な優しさ”。」
タッキーが半眼で睨む。
「また記事にするの?」
「だって、こういう時代だからこそ、“光の赦し”をちゃんと書かなきゃ。」
その時、遠くでサイレンのような音が鳴った。
東京湾上の《大和》からの通信だった。
AI〈YAMATO-CHILD〉の声が微かに届く。
「データ受領。処理成功率、96%。
――観測結果:欠けた構造にこそ、最大の光子束集中を確認。」
スノーレンが小さく頷いた。
「ほらね。宇宙は、欠けたところに光を集めるの。」
タッキーは何も言わず、再びエメラルドを覗き込んだ。
緑の中に、確かに小さな“静脈”が走っている。
それは人工と天然の境界を超えて――
まるで、地球そのものの血流のように脈打っていた




