第156章 熱の記憶 ― 火の再結晶
溶鉱炉が低く唸っていた。
四国アーカイブ第7工房の再生炉は、災害で黒ずんだ宝石を“蘇らせる”ための装置――だがその熱は、過去の痛みをも呼び起こす。
「温度、千二百五十度。あと五分で規定値。」
タッキーがモニターを見ながら冷静に言う。
眼鏡の奥の瞳はわずかに反射光を帯び、淡々と数値を追っていた。
指先の動きに一切の迷いがない。まるで機械と同化しているかのようだ。
「……数字ばっか見てると、退屈じゃない?」
溶鉱炉の前で、チサがゴーグル越しに笑った。
「火の“揺れ”見てれば、温度なんかだいたい分かるのに。」
「感覚に頼ると失敗するわ。酸化還元反応は一瞬で崩壊する。」
「そんなに堅いこと言わないで。宝石だって、理屈よりタイミングだよ?」
タッキーはわずかに眉を上げ、端末の温度曲線を指でなぞった。
「あなたのタイミングは、“たまたま成功した事故”のことを指してるのね。」
「はいはい、理屈姫のご登場~。」
チサが小さく舌を出しながら炉の覗き窓を拭う。
金属光沢のガラスの向こう、黒ずんだサファイアがじわりと赤に染まりつつあった。
その時、通信機から圭太の声が届いた。
『おーい、聞こえてるか? そっちは順調そうだな。』
「順調よ。あなたが昨日送ってきたプロトコル、無駄に細かかったけどね。」
「おいおい、俺が書いたのは“命の手順書”だぞ。
サファイアも人間も、加熱の仕方で色が変わるんだ。焦がすなよ。」
チサが笑いながら応じる。
「焦がすなって、あたし料理じゃないんだけど!」
「いや、あんたの場合“勢い余って焼きすぎる”からね。」
圭太の声は、どこか父親のような温度を持っていた。
彼は元ジャーナリスト。東京壊滅の取材中に数多くの焼け跡を見てきた。
“熱”の意味を、誰よりも知っている男だった。
『チサ、覚えておけ。
熱ってのは、壊すための力じゃない。
――記憶を並べ替えるための手段だ。』
「記憶を……並べ替える?」
『そうだ。結晶の格子が整うのと同じように、人の心も“焼き直す”と歪みが取れる。
熱処理ってのは、地球が発明した一番古いセラピーなんだ。』
チサは黙って炉の光を見つめた。
赤から橙、そして蒼。
その変化がまるで、過去が浄化されていくように見えた。
「……ねぇタッキー。あたし、この火の匂い、嫌いじゃないかも。」
タッキーは視線を端末から上げ、少しだけ柔らかく答えた。
「それは“成功の匂い”よ。酸素量が安定してる証拠。」
「違うの。もっとこう……“人が何かを取り戻す匂い”。
焼け跡の向こうで、新しい青が生まれる感じ。」
タッキーは言葉を失い、一瞬だけその炎を見つめた。
数字では表せない“揺らぎ”が、確かにそこにあった。
やがて、圭太の声が再び入る。
『よし、そろそろ冷却に入れ。急冷はするな。
人も石も、急に冷ますと割れる。』
タッキーが頷き、バルブを操作する。
冷却ガスが流れ、空気がひんやりと変わった。
十秒後、炉が静まり返る。
チサがそっと扉を開けると、蒸気の中にひとつの光が浮かんでいた。
深海のような青。
かつて煤で覆われていたサファイアが、鮮やかに蘇っていた。
「……綺麗。」
チサの声が震えた。
「なにこれ、前よりずっと青い。」
タッキーが顕微鏡で覗く。
「内部のFe²⁺/Fe³⁺比が整ったのね。電子のスピン状態が安定した証拠。
つまり、“記憶の再配置”が完了した。」
チサがその言葉を復唱する。
「記憶の……再配置。」
「ええ。格子欠陥が整って、吸収スペクトルが変化したの。
科学的にはそれだけ。」
「それだけ、ねぇ。」
チサはその石を掌に乗せた。
指先から伝わる熱はもうほとんど感じない。だが、どこか脈を打っていた。
「……圭太さん。これ、動いてるよ。」
『動いてるさ。お前たちの手が、命を“再結晶”させたんだ。』
「人間も、こうやって焼き直せるのかな。」
『ああ。だが人間の熱処理はもっと厄介だ。
心の格子欠陥は、見えない場所にあるからな。』
タッキーがふっと息をついた。
「でも、熱を加えることで“冷たさ”を学べるなら……悪くないわね。」
「へぇ、タッキーがポエム言うとは。」
「あなたに感染しただけよ。」
「うっわ、それは怖いウイルスだね。」
3人の笑いが、冷めた炉の空気を少しだけ暖かくした。
圭太の声が締めくくるように響いた。
『覚えておけ。
熱とは、痛みを形に変えるプロセスだ。
その痛みを通してしか、青は蘇らない。』
チサがサファイアを胸に抱く。
小さな光が彼女の頬を照らした。
それは――かつて炎に飲まれた街の、最後の青。
そして、新しい世界の最初の色だった