第152章 煙の天井 ― 日常化された地獄
夜明け前、呼び出しがあった。
「新しい班に入る。Kommando Sonder(特別作業)だ。」
その言葉を聞いた瞬間、Kの背筋が凍った。
この名を知る者は皆、恐れていた。
それは生き残る班ではなく、“死を片づける班”だった。
作業場はガス室のすぐ隣、厚いコンクリートの壁の裏。
床には血と水の混じった跡がまだ濡れていた。
壁際には鋼鉄製のフック、掃除用のブラシ、そして金属製の棒。
「服を取り上げろ。髪を切れ。歯を抜け。」
監督役の兵士が無感情に命じる。
その声は機械のようで、怒りも哀れみもなかった。
Kはハサミを持った。
目の前の遺体の髪を切る。
まだ温かい。
胸がわずかに上下している気がした。
だがそれは錯覚だった。
切った髪は袋に入れられ、後にドイツの工場で繊維材料として再利用された。
指輪や金歯は別の容器へ。
“資源”――そう呼ばれていた。
昼、作業が終わると外に出る。
煙突からは、濃い灰色の煙。
匂いは甘く、重く、喉の奥にまとわりついた。
風が吹くと灰が降る。
Kの肩にも、顔にも、唇にも落ちてくる。
それを舌で感じてしまった瞬間、吐き気が込み上げた。
「それは……人の灰だ。」
隣の男が低く言った。
Kは口を塞ぎ、空を見上げた。
その空は、もう天ではなかった。
灰と煙で覆われた“死の天井”だった。
夕方、監視兵の点呼。
新しい一団が到着したという。
線路の先で汽笛が鳴る。
Kは音を聞くだけで、次に何が起こるか理解した。
列車のドアが開き、同じ光景がまた繰り返される。
泣く者、祈る者、笑う者。
彼らはまだ“未来”があると思っていた。
Kたちは彼らを迎え入れ、指示通りに動かす。
「服をたたんで、ここに置いてください。番号は覚えておいて。」
声は静かで、震えていなかった。
――彼もまた、機械になっていた。
夜。
バラックに戻ると、壁の隙間から星が見えた。
灰の雲の向こう、かすかに輝く光。
それを見上げるだけで、涙が出た。
名前を持たない死者たちの分まで、生き延びねばならない。
それが、Kがこの地獄で自分に課した唯一の“倫理”だった。
ある夜、仲間の男が小さな紙切れを渡した。
「これは……?」
「記録だ。どこかに残したい。俺たちがここで何を見たか。」
紙には震える文字でこう書かれていた。
《人間が神を殺した場所。
神が沈黙し、人間が灰になった場所。》
Kはその紙を胸に隠し、眠れぬまま夜を越えた。
翌朝、鐘の音。
新しい列車が着く。
Kはもう恐怖を感じなかった。
恐怖を感じる場所は、もう心の中に残っていなかった。
代わりにあったのは、冷たい理性の残骸だけ。
そしてその理性が、彼を生かしていた。
煙突の煙が再び空へ上がる。
その向こうに朝日が昇る。
灰の粒が光を受けて金色に見えた。
それが、Kにとっての“祈り”だった。
灰の祈り。
燃やされた人々の記憶が、
空の色として、世界を染めていた。