第151章 選別 ― 理性の終端(約2000字)
翌朝、霜の降りた鉄条網が白く光っていた。
朝礼はまだ暗いうちに始まった。
サイレンの音が鳴り響き、各棟の扉が一斉に開く。
数百人が外に押し出され、裸のように薄い囚人服で整列した。
靴は片方が違い、木底が剥がれている。
誰も言葉を交わさない。
言葉が恐怖を呼ぶからだ。
点呼は一人ずつ。
番号を呼ばれた者は「Ja」と答える。
声が出ない者は、警棒で叩かれた。
倒れた者がいても、列は動かない。
「六時〇五分、死亡」――それだけ記録員が帳簿に書き込み、列は前進した。
名前ではなく数字、死でもなく“欠員”。
ここでは死が、単なる勤務統計の一部だった。
午前、Kたちは作業班に分けられた。
「Kommando 17」――焼却炉近くの清掃班。
他より短命と噂される班だった。
指導役のカポ(囚人監督)は、ユダヤ人ではなくポーランドの前科者。
皮ベルトを手に、冷たい目で命令を出す。
「急げ、今日も200立米だ。」
掘るのは灰の下、昨日までの人々の跡。
焼却炉のある棟――Krematorium II。
外観はコンクリート造の低い建物。
入口には「Badehaus(浴場)」と書かれた看板。
その下の地下通路に、空気の違う匂いが満ちていた。
焦げた脂、毛髪、そして石鹸のような甘い臭い。
通路の奥に並ぶ鉄製の扉。
その扉の裏で何が行われたか、Kは知っていた。
午前の仕事は灰の搬出だった。
灰は粘土のように湿っていて、スコップに絡みつく。
時々、骨のかけらが出る。
Kは最初の数分だけ震えていたが、すぐに手が止まらなくなった。
隣の男が言う。
「考えるな。考えたら死ぬ。」
男の声はかすれ、目だけが空洞のようだった。
昼休憩はない。
煙突から立ち上がる煙が一層濃くなる。
午後の“運搬”が始まった合図だった。
Kは、焼却棟の近くで一台のリヤカーを押していた。
中にはまだ温かい灰。
軽いはずなのに、足が動かなかった。
「早くしろ!」
監視兵の声が響き、銃床が背中に叩きつけられた。
彼らの一日の作業量は、死者約2,000名分の遺灰の処理だった。
数字だけが、命の代わりに残る。
灰はビルケナウ川沿いの池へ運ばれ、投げ入れられた。
灰が水に落ちる音は、想像よりも静かだった。
水面には、油のような薄い膜が広がり、陽光を虹色に反射した。
Kはその光を見つめながら、
「これが人間の終わりか」と思った。
作業の合間、ドイツ兵がやって来た。
白衣を着て、手にノートを持っている。
彼は炉の前に立ち、灰を掬って観察した。
「昨日より燃焼効率が上がっているな。」
助手が答える。
「湿度を下げ、風量を調整しました。乾燥材を追加しています。」
まるで工場の製品検査のような会話。
Kは耳を塞いだが、言葉は脳に刻まれた。
夕方、再び点呼。
10人が戻らなかった。
理由は誰も問わない。
寒さか、銃か、あるいは心。
Kは無意識に空を見上げた。
煙突の煙が夜風に流れ、星の光を遮っていた。
「明日も来い。」
カポが言う。
「死なない限り、仕事はある。」
その言葉は皮肉でも慰めでもなかった。
ただ、世界の残酷な秩序の説明だった。
夜、バラックに戻ると、床に小さなパンが落ちていた。
誰かが隠していたのだろう。
Kは拾って半分に割り、隣の老人に差し出した。
老人は無言で頷いた。
その瞬間だけ、
この地獄に、かすかな人間の音が戻った。




