第150章 到着 ― 灰の列車(約2000字)
夜が終わる前に列車は止まった。
鉄の車輪が軋み、誰かが外から扉を叩いた。
「Raus!(出ろ!)」――怒鳴り声と同時に、犬の唸り声が響く。
人々は互いの体を押し合いながら出口を探した。
暗闇の中で、呼吸の音と布の擦れる音だけが続く。
木の床には排泄物の臭い、汗、血、そして恐怖が染みついていた。
外に出た瞬間、空気が焼けた鉄のように冷たかった。
見渡す限りの鉄条網。
高い監視塔の上で、探照灯が動く。
その光が人々の顔を一瞬だけ照らし出す――
蒼白で、乾ききった頬、震える唇、腕の中で泣き叫ぶ子供。
プラットフォームの先には、制服の男たちが並んでいた。
黒いブーツ、銀のドクロ章、整列した姿。
命令は短く、機械のようにリズムを刻む。
「右、左。右、左。」
それだけ。
意味も理由も告げられなかった。
その列の間を通るとき、Kは気づいた。
男たちはまるで検査官のように淡々としていた。
目の前に立つ若い医師が、わずかに眉を上げる。
「Arbeiten?(働けるか?)」
Kは咄嗟にうなずいた。
足が震えていたが、それでも立って見せた。
医師の指が右を示す。
ただそれだけで――Kは生き残った。
左へ送られた者たちは、もう戻ってこなかった。
女と子供が多かった。
白衣の兵士が優しく微笑みながら言う。
「すぐにシャワーを浴びられますよ。服をたたんでください。」
その言葉に、安堵の息が漏れる。
老女は手を合わせ、神に感謝の祈りを捧げた。
だがそれが最後の言葉になった。
広場には山積みの荷物。
スーツケース、靴、メガネ、玩具。
それぞれに名前が書かれていた。
“ヘレナ・シュピルマン 1937年 ロッジ”
“ユダ・レヴィン 家族 5名”
名前は残り、持ち主だけが消えていた。
風が吹いた。
遠くの煙突から、白い煙が昇っていた。
最初は霧だと思った。
だが鼻を刺す焦げた臭いが、そうではないことを教えた。
誰かが囁いた――
「焼いているのは……人だ。」
その言葉は空気よりも重かった。
午後、Kは他の男たちと共に木造のバラックに押し込まれた。
番号札の代わりに、腕に入れ墨が刻まれた。
針が皮膚を刺すたび、痛みよりも存在が奪われる感覚があった。
“名前”が数字に置き換わる。
「B-11674」
それがこの場所での新しい呼び名だった。
食事は薄いスープと黒いパン。
パンの中には、石のような塊が混ざっていた。
誰も文句を言わない。
言えば殴られた。
時々、銃声が聞こえた。
誰が撃たれたか、誰も見に行こうとはしなかった。
夜になっても、空は灰色のままだった。
煙突の火は消えない。
息を吸うと、喉が焼ける。
Kは眠れず、枕の代わりに木の板に顔を押しつけた。
耳の奥で、かすかに歌声が聞こえた。
どこかのバラックから、母親のような声で
ヘブライ語の子守唄が流れてきた。
それは、もう二度と聞くことのない祈りのようだった。
Kは目を閉じた。
頭の中で、列車の音がまだ鳴っていた。
ゴトン、ゴトン。
そのリズムは、どこか遠い世界の心臓の鼓動のように感じられた。
だが、それはもう“未来”へ続く音ではなかった。
この列車の終点は、世界の終わりだった。




