第146章 アインザッツグルッペン ― 秩序の銃口
(静かな夜。風の音が強い。蛍光灯の白い光の下で、渡辺さんが机に古びた地図を広げる。ベラルーシとウクライナの国境線。点々と赤い印がついている。)
渡辺さん
……さて、今夜は、もっと奥へ行きましょう。
T4作戦――つまり“医療の名を借りた殺害”の次に現れたのが、アインザッツグルッペン。
国家が直接、銃を手にした瞬間です。
小林さん
(地図を覗き込みながら)
……赤い点、なんですか?
渡辺さん
(静かに)
墓穴です。
“移動殺戮部隊”が通った場所――ベラルーシ、ウクライナ、リトアニア。
1941年6月、バルバロッサ作戦。ドイツ軍がソ連に進軍した直後、後方にこの部隊が入った。
任務名は「治安確保」。でも、実態は組織的な銃殺でした。
高橋さん
……つまり、兵隊じゃなくて、SSの特別部隊?
渡辺さん
そう。
SS情報局(SD)と治安警察(Gestapo)、そして秩序警察(Ordnungspolizei)から選抜。
四つの主要部隊――A、B、C、D。
北方から順に進み、町ごとに“粛清”していった。
指揮はハイドリヒ。
命令書には、こう書かれていた。
「政治委員、知識人、ユダヤ人を排除せよ。
社会の秩序を脅かす要素を根絶すること。」
小林さん
……“排除”って、またあの言葉……。
渡辺さん
ええ。
実際には「撃て」という意味です。
でも、“法的な言葉”にすれば、責任は薄れる。
まず地元の警察や協力者から名簿を集め、夜明け前に家を回る。
捕まえた人々は学校やシナゴーグに集められ、リスト順に選別。
そして、町外れの林や採石場へ。
銃殺。
1日で千人単位のこともありました。
高橋さん
(目を閉じて)
……なんていうか、もう、工場の作業みたいね。
渡辺さん
まさにそうです。
“手順”が決まっていた。
拘束、移送、射殺、記録、報告。
アインザッツの報告書には、こういう欄がありました。
「処理人数」「弾薬消費」「報告送信日時」
数字が並ぶ。
血は見えない。
“統計”の形をしていたんです。
小林さん
……誰がそれを見てたんですか?上の人たち?
渡辺さん
(頷く)
はい。ハイドリヒ、ヒムラー、RSHA本部。
毎週、「処理報告」が送られていた。
たとえば“イェーガー報告”。
リトアニアの指揮官カール・イェーガーが出した報告書。
日付、都市名、犠牲者数、職業、男女別。
精密に書かれていました。
たとえば、ある一節には――
「1941年12月1日までに、女性55,556名、子ども34,464名を処理。
リトアニアはユダヤ問題から解放された。」
“解放”。その言葉が使われていた。
高橋さん
(静かに息を吐く)
……言葉が、殺してる。
渡辺さん
(ゆっくり)
はい。
言葉が“殺害を正当化する言語”に変わった瞬間。
「処理」「清掃」「再配置」。
どれも“死”の別名でした。
小林さん
でも……そんなことしてたら、兵士たち、心が壊れますよね。
毎日人を撃つなんて……。
渡辺さん
(静かに目を細める)
ええ。
その“疲れ”が、次の段階――ガス殺を生みます。
アインザッツの指揮官たちはこう報告した。
「我々は、人間の目を見て撃つことに耐えられない。」
だから、「より人道的な方法」を求めた。
排気ガスを利用したトラック。
つまり、ガストラック(移動ガス室)。
排気管を荷台に繋げ、中に押し込めた人々を窒息死させる。
1941年末、チェルムノで試験運用。
これが後のガス室の原型です。
高橋さん
(呆然と)
……“人道的”って、言ったの?
渡辺さん
はい。
「苦しませない」「兵士の精神を守る」という理由で。
つまり、“人間性”を守るために機械を作った。
皮肉でしょう?
彼らは、自分たちを“合理的で倫理的”だと信じていた。
小林さん
(震える声で)
……じゃあ、罪悪感から逃れるために、技術が進んだ?
渡辺さん
そうです。
心理的コストを軽減するために、殺害を機械化した。
これが「効率化」と「道徳の欠損」が一致した瞬間です。
以後、ガス室は“改善”されていく――
排気ガスからチクロンBへ、数十人から数千人へ。
そして、アウシュビッツに到達する。
高橋さん
……結局、“疲れたから”ガス室を作ったのね。
技術じゃなくて、心の弱さが原因だったなんて。
渡辺さん
(静かに頷く)
心の限界が、倫理の限界を超えたんです。
アインザッツは、まるで「国家の精神分析」みたいでした。
怒りと恐怖と命令が混ざり、
“合理”という名の麻酔で麻痺していく。
小林さん
……誰か、一人でも止めた人はいなかったんですか?
渡辺さん
いました。
中には拒否した兵士もいた。
でも、代わりはいくらでもいた。
命令を断れば、裏切り者。
だから、多くは“正しい仕事”をしていると信じた。
ヒムラー自身が前線を視察したとき、部下に向かってこう言いました。
「君たちは偉大な任務を果たしている。
それは歴史が理解しない苦痛の任務だ。
しかし、君たちはそれを成し遂げた。」
つまり、殺人を道徳化したんです。
高橋さん
(低く)
……“苦痛の任務”。
なんて上等な言い訳ね。
渡辺さん
(淡々と)
ええ。
でも、言葉って、そんな風にして「現実」を正当化する。
だから私たちは、それを読むとき、
“文体そのものが武器になる”ことを忘れてはいけない。
小林さん
(俯いて)
……でも、今の時代も、言葉が同じように使われること、ありますよね。
「効率」「安全保障」「リスク管理」――
便利な言葉の裏に、何かを切り捨ててる気がする。
渡辺さん
(やわらかく微笑む)
それが、この授業――いや、このサークルでの一番大事なテーマです。
“見えない暴力”を見抜くこと。
それが、本当のマジックですから。




