表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2191/3595

第144章 閉ざされた街 ― ゲットーという実験場



 私は最初、それが“殺す場所”だとは思わなかった。

 ワルシャワへ着任したのは1940年10月。

 街にはまだ戦前の香りが残っていた――トラム、コーヒーの匂い、新聞売りの声。

 だが、その中心に、目に見えない壁が築かれつつあった。


 それを人々は“ゲットー”と呼んだ。

 だが当時、上官は違う言葉を使っていた。

 > 「衛生隔離区」「疫病管理区域」

 ――もっともらしい理屈をまとった言葉だった。


 壁は高さ3メートル、頂部にガラス片。

 総延長は16キロに及び、レンガを積む音が昼夜響いた。

 その向こう側へ、40万人以上のユダヤ人が押し込められた。

 門は十数カ所、鉄条網と憲兵。

 通行証を持つ者だけが通れる。

 誰もそれが“生きて出られぬ街”になるとは知らなかった。


 私の任務は記録だった。

 ロッジ・ゲットーでの「食料配給と死亡統計」を集計し、週報にまとめる。

 毎日届く数字。

 パン配給量:一人あたり1日180グラム。

 死亡数:本日87。

 飢餓、チフス、冷え――原因の欄は淡々としている。


 数字は、すべて整然としていた。

 秩序はあった。

 だからこそ恐ろしかった。


 ある日、区長を名乗るユダヤ人男性がやってきた。

 彼は上品なドイツ語を話し、ネクタイを締めていた。

 「我々は協力したい。子どもたちのためにスープをもう少しだけ……」

 上官は笑って答えた。

 「秩序を保て。お前たちの使命は死ぬ順番を決めることだ。」


 彼は沈黙し、ただ立ち去った。

 その背中が、なぜかまっすぐに見えた。


 冬。

 ワルシャワ・ゲットーでは雪が壁の上まで積もり、

 道の両脇に凍った遺体が並んだ。

 誰も驚かない。

 市民は遺体を布で包み、角に積み上げる。

 “道が狭い”という理由だった。


 私は一度だけ中を歩いた。

 軍医の付き添いで“疫病確認”という名目だった。

 子どもたちが路地の隅で遊んでいた。

 空き缶を蹴り、笑っていた。

 だがその笑い声の向こうで、

 母親が鍋を空でかき混ぜていた。

 鍋の底には、石ころと紙切れが煮えていた。


 同行していた軍医がメモを取った。

 「栄養状態、急速に低下。疫病拡大の危険。」

 そして冷ややかに言った。

 「処置が必要だ。」

 その“処置”が、後に意味するものを私はまだ知らなかった。


 1941年夏、東部戦線の報告が届いた。

 「銃殺によるユダヤ人処理、月間十万件超。」

 私の上官はその数字を見て、眉をひそめた。

 「非効率だ。弾薬が足りない。」

 そしてこう続けた。

 「都市の中で、より自然に、より安静に進められる方法を試すべきだ。」


 その言葉が、“ゲットー”という名の実験の始まりだった。

 飢餓を利用し、病を広げ、秩序を維持する。

 殺さずに死なせる。

 それが「管理の成功」だと教えられた。


 1942年7月。

 私はワルシャワ駅のホームに立っていた。

 “再定住輸送”という作戦の始動日だった。

 列車の先頭に、赤いチョークで書かれていた。

 > “Lublin / Treblinka”


 数千人が列をなして歩く。

 子どもを抱く女、杖をつく老人。

 「新しい労働地で仕事がある」と告げられていた。

 誰も抵抗しなかった。

 兵士たちは整然と誘導し、銃を撃つ必要はなかった。

 効率は上がった。

 記録上、「再定住:7000人」

 だが、目的地には労働場は存在しなかった。


 その夜、報告書の末尾に一文を加えた。

 > 「本日、ワルシャワ・ゲットーより出発した再定住者7,254名。秩序良好。」

 ペンを置いたとき、手が震えていた。

 何が“秩序良好”なのか、もう分からなかった。


 数ヶ月後、ゲットーは焼かれた。

 ワルシャワ蜂起。

 武装した若者たちが抵抗し、街は火の海になった。

 私たちは上からそれを見下ろしていた。

 上官が双眼鏡を覗きながら言った。

 「よく燃えるな。感染源の根絶だ。」


 瓦礫の中から、ヴァイオリンの音が聞こえた。

 崩れた建物の下で誰かが弾いていた。

 火の粉が雪のように降り注いでいた。

 音は震えていたが、確かに旋律だった。


 その音を聴いて、私は思った。

 ――これは殺戮ではなく、実験なのだ。

 死の中で秩序を保つ実験。

 理性を使って破壊する、人間という種の試み。


 戦後、私はその報告書を再び読むことになる。

 「ワルシャワ・ゲットー、最終的清掃完了」

 紙の上の文字は、あの冬の日よりも冷たく見えた。

 だが私は、あの街の音を忘れない。

 壁の向こうの笑い声、鍋の音、ヴァイオリン。

 それらは、秩序の中で窒息した文明の心音だった。


 人間は狂気によってではなく、手順によって殺す。

 それを私は、あの閉ざされた街で学んだのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ