第143章 閉ざされた街 ― ゲットーという実験場
(部室。蛍光灯の光がやや暗く、机の上には積み上げられた白い紙と、黒いトランプの束。
外は雨。窓の外の灰色の街を見ながら、渡辺さんがゆっくりと話し始める。)
Scene 1 「壁の中の秩序」
渡辺さん:
ねえ、みんな。“壁の中の街”って、想像したことありますか?
一見ふつうの都市だけど、周囲に高い壁があって、出入りには許可証がいる。
中では市場が開かれ、学校もある。
でも、そこに入ったら――二度と外には出られない。
小林さん:
え、それって……監獄じゃないですか?
でも、市場とか学校があるなら、なんか普通っぽいというか……。
高橋さん:
普通なんて言葉、危険よ。
1940年のポーランド、ワルシャワ・ゲットー。
そこには40万人のユダヤ人が詰め込まれてた。
壁の高さ、3メートル。上にはガラスの破片。
逃げようとしたら即射殺。
しかも、その壁を造ったのは――中に入れられた本人たちだった。
佐藤くん:
……自分で、閉じ込められる場所を造るんですか。
なんか……マジックの“自縛トリック”みたいですね。
逃げられるはずのない箱に、自分で入って鍵を閉める。
主任:
(苦い笑みで)
それが「秩序」ってやつだ。
当時のドイツの文書では、こう書かれてる。
“都市衛生上の隔離措置。伝染病防止のため。”
表向きは、健康管理だった。
でも実際には――社会的絶滅の予行演習だったんだよ。
Scene 2 「死を設計する書類」
伊藤さん:
(資料を広げながら)
ほら、これ。1941年、ロッジ・ゲットーの“食糧配給表”。
成人一人あたりのパンの割当――1日180グラム。
リンゴ1個で一週間分のカロリー。
それでも記録上は「供給安定」と書かれている。
「飢餓」は、武器じゃなく“手続き”だったの。
課長:
(ペンを回しながら)
なるほど、殺すのに銃もガスもいらない。
計算機と印章だけでいいわけか。
「行政的殺人」ってやつだね。
高橋さん:
そう、ナチスは書類で殺したのよ。
現場の命令書には、“処理”“再定住”“衛生改善”って書いてある。
誰も「殺す」とは書かない。
でも、その言葉の下で毎日人が死んでいった。
小林さん:
……うわ。
言葉の魔法みたい。
「処理」って言い換えた瞬間に、罪悪感が消える。
渡辺さん:
そう。
手品でもそうだけど、**“言葉の置き換え”**は最大のトリックなんです。
観客が「危険」じゃなく「演出」と思った瞬間、現実の痛みは消える。
彼らも、たぶんそうやって心を麻痺させていた。
Scene 3 「壁の中の音」
佐藤くん:
ゲットーの中って、どんな感じだったんですか?
食べ物とか、仕事とか……。
伊藤さん:
仕事はあったよ。
靴工場、縫製工場、廃材処理。
でも賃金は出ない。
働く目的は、生き延びるための口実。
それでも人は歌を歌い、ヴァイオリンを弾いた。
戦後の証言にあるんだ。
“壁の外の銃声が止まると、私たちはピアノを弾いた。
それだけが、生きている証だった。”
高橋さん:
でも、その音楽さえ利用されたのよ。
ナチスは“文化的自活”って宣伝した。
「ユダヤ人にも生活がある」
って。
実際は、死ぬまでの過程を“社会実験”として観察してただけ。
主任:
人間を、社会の中でどう「段階的に消すか」。
暴力じゃなく、秩序で消す。
その実験のモデルが――ゲットー。
小林さん:
……ねえ、それって結局、「きれいな殺し方」ってこと?
渡辺さん:
(うなずいて)
そう。“汚れない殺人”の始まり。
血を見ずに死を設計する文明の、最初の装置です。
Scene 4 「再定住列車」
(部室の照明が一瞬、ちらつく。
渡辺さんが机の上に線路のようにカードを並べる。)
渡辺さん:
1942年7月22日――
ワルシャワ・ゲットーから、最初の“再定住列車”が出た日です。
目的地は「東部の労働地」と発表された。
実際の行き先は――トレブリンカ。
佐藤くん:
(低く)
その時、誰も知らなかったんですか?
その先が、死だってこと。
伊藤さん:
知ってた人もいた。でも、言わなかった。
家族を落ち着かせるため、
「向こうには畑がある」「仕事がある」
って。
“希望”もまた、秩序の一部にされたの。
高橋さん:
駅の記録にはこう書いてある。
「再定住:秩序良好、列車編成完了、人数7,254名。」
一文も、悲しみがない。
でもその裏で、7000人分の音――足音、泣き声、祈り――があった。
課長:
(沈黙し、やがて低く)
秩序ってやつは、音を消すんだな。
整列すれば、死の行進でさえ“静か”になる。
Scene 5 「部室の終わりに」
(雨音が強まる。窓の外の街灯が、濡れたガラスに揺れている。)
小林さん:
……じゃあ、ゲットーって結局、何だったんですか?
牢屋でもなく、実験場でもなく――。
渡辺さん:
(少し考えてから)
“鏡”だったと思います。
人間が、自分の作った秩序に閉じ込められる鏡。
自分たちの文明が、どこまで倫理を切り捨てられるかを試した場所。
主任:
そして成功した。
ゲットーの秩序は完璧に機能した。
だからこそ――次の段階に進めた。
“輸送”と“最終解決”。
高橋さん:
(静かに)
つまり、人間は「地獄を管理できる」ってことを証明しちゃったのね。
佐藤くん:
……そんなの、マジックじゃない。
ただの――悪夢ですよ。
渡辺さん:
でも、忘れないで。
どんなトリックも、観客が目を逸らした瞬間に完成するんです。
彼らがしたのは、それだけ。
見なかった。気づかないふりをした。
だから、魔法は続いた。
(雨の音が止む。
渡辺さんがカードを一枚、裏返す。そこには黒い四角――壁の絵。
全員、黙ってそのカードを見つめている。)
終わりの静寂
課長:
……その壁の向こう側に、まだ誰かがいる気がするね。
渡辺さん:
ええ。
歴史はいつも、同じ手品を繰り返す。
観客が変わっても、トリックは変わらない。
(蛍光灯が、ゆっくりと明滅を繰り返す。)




