第141章 近代行政犯罪の設計図 ― 手品サークルの夜
(古びた大学棟の一室。木のテーブルの上にはトランプとノート、そして何冊かの分厚い本が積まれている。窓の外では雨が静かに降り始めていた。)
渡辺さん
(いつものように、手帳を広げながら)
……今日は、ちょっと変わった話をしようと思います。
ホロコーストって、知っていますか?
小林さん
(ペンを回しながら)
えー、あれですよね?ナチスがユダヤ人を……えっと、ガス室で殺したやつ。
なんか、歴史の授業でやりました。
でも、戦争中の狂った人たちがやったんでしょ?
高橋さん
(コーヒーをすすりながら)
そうよ。ヒトラーとか、ああいう独裁者が頭おかしかったんでしょ。
あの時代は戦争だし、誰も止められなかった。
今とは違うのよ。今は“理性的な時代”だから。
渡辺さん
(静かに首を振る)
……それがね。違うんです。
ホロコーストって、実は“狂気”じゃなくて、“秩序”だったんですよ。
法律、官僚、医者、統計学者、鉄道職員――全部が動いた。
誰も怒鳴らず、誰も血を見ずに、人が殺されていったんです。
小林さん
(目を丸くして)
……え、でも、誰が殺したんですか?
そんなにたくさんの人を。
渡辺さん
(ゆっくりとトランプを1枚抜き取って、裏を見せる)
このカードを見てください。
「行政」という名前が書かれている。
彼らは「法の下で」命令を実行した。
医師は「治療」と言い、警察は「隔離」と言い、鉄道職員は「輸送」と言った。
(カードを次々に並べる)
「理念 → 法 → 統計 → 執行 → 隠蔽」
これが、ホロコーストの“手順”です。
高橋さん
……ちょっと待って。それって、つまり“システム”で殺したってこと?
誰かがナイフを握ったわけじゃなくて?
渡辺さん
そう。
たとえば、ある役所では「非アーリア人」の職員を除籍する書類を出しただけ。
鉄道局では、列車のダイヤを守っただけ。
医者は、手術台ではなくガス室の設計図に署名した。
誰も自分を「殺人者」と思っていなかった。
でも、全員が一枚の歯車として動いていた。
小林さん
(小声で)
……怖いですね、それ。
だって、今だって同じような書類、いくらでもありますよね?
「合理化」とか「効率化」とか……言葉の感じ、ちょっと似てません?
渡辺さん
(うなずく)
まさに、それなんです。
暴力って、最初から血を流す形では現れない。
いつも“正しそうな言葉”の形でやって来るんです。
たとえば――
「国民の健全性を保つため、不適格者を処置する」
「社会的負担を軽減するため、劣等者の増加を抑える」
こう書かれている政策文書が、1930年代のドイツに実際にありました。
言葉だけ見れば、健康や秩序を守るように聞こえるでしょう?
でも、実際にはそれが“断種法”や“安楽死計画”の始まりだった。
高橋さん
(少し顔をしかめて)
……でも、それを止められる人はいなかったの?
学者とか、聖職者とかさ。
渡辺さん
いたにはいました。
でも、「国家のため」「科学のため」「合理化のため」って言葉の前では、
誰も“倫理”を口にできなかったんです。
それを口にする人は、“非合理的”とか“感情的”とか呼ばれて排除された。
つまり、科学が倫理を超えた瞬間に、
ホロコーストは制度として完成したんです。
小林さん
(少し息を呑み)
じゃあ、あれって、“頭のいい人たち”が作ったんですか?
渡辺さん
ええ。
だからこそ、恐ろしい。
狂人の暴走ではなく、理性的な人間たちの“最適化”だった。
行政は処理をし、企業は製造を担い、学者は理論を支えた。
――つまり、合理的な連携の成功例でもあったんです。
高橋さん
(黙ってコーヒーを見つめる)
……それって、まるで今の社会ね。
誰もが「正しい」って思ってる限り、誰も止まらない。
渡辺さん
(静かに微笑みながら)
そうです。
だから、この話を手品サークルでしているんです。
(テーブルのカードを一枚ひっくり返す。裏には赤いインクで「止」と書かれている)
魔法のように仕組まれた“秩序”の中で、
どこかで誰かが――このカードを裏返さないといけない。
小林さん
……渡辺さん、それ、つまり「ブレーキ」ですか?
渡辺さん
(うなずく)
はい。
どんなシステムにも、止まるための設計が必要です。
「いつ止まるか」を決められない理性は、いつか暴力に変わる。
高橋さん
(小さく笑って)
……なるほどね。
あなた、手品じゃなくて哲学者になったほうがいいわ。
渡辺さん
(穏やかに)
手品も、現実も同じです。
見えているものが真実とは限らない。
――問題は、誰が“種”を見破るか、なんですよ。
小林さん
(静かにトランプを手に取りながら)
じゃあ、次のマジックの種、教えてくださいよ。
どうやったら、“騙されない目”を持てるんですか?
渡辺さん
(微笑しながら)
次の講義で話しましょう。
「差別がどうやって制度になるか」。
――それが、この国の“第一の手品”だったんです。
(外の雨が強くなり、部屋の照明が少し揺れる。
トランプの裏面に描かれた赤い線が、どこか血のように見えた。)




