第139章 AI《灰の中の声 ― 永瀬聡の回想》
時代は1970年秋。
三島の死の二か月前。
まだ彼の死の理由を誰も知らなかった時、
ある大学生が「アウシュビッツ以後の美」という講演を聴き、
それがのちに“予兆”として胸に刻まれる。
あの夜の駒場は、秋の雨が降っていた。
校門をくぐると、濡れた銀杏の葉が照明の光を反射して、まるで小さな炎のように揺れていた。
900番教室にはすでに満員の学生が集まっていた。
壇上に現れた三島由紀夫は、黒いスーツに銀のネクタイを締め、微笑みを絶やさなかった。
だがその微笑は、どこか“別の時間”に属しているように見えた。
私は二十歳で、まだ死という言葉を他人のものとしてしか感じていなかった。
だから、あの夜の講演の第一声は、私の胸を奇妙に冷やした。
「アウシュビッツとは、理性が完全に成功した場所です」
――成功、という言葉の冷たさ。
それは文学者の比喩ではなく、彼にとっての定義だった。
I. 秩序の美
三島は、黒板の前に立ち、静かな声で続けた。
「人間は、美と秩序を愛する。
しかし、美が倫理を失ったとき、それは暴力になる。
秩序が痛みを失ったとき、それは死を量産する。」
その言葉が、まるで遠い鐘の音のように響いた。
教室の空気は重く、誰もペンを動かさなかった。
彼の声は鋭くも柔らかく、金属のように冷たい光を放っていた。
私はそのとき、妙な感覚に包まれた。
――この人は“未来”の話をしている。
アウシュビッツは過去の地獄ではなく、これから私たちが築く文明の形なのだと。
II. 「痛み」の講義
彼は講壇に両手を置いて、学生たちを見渡した。
「日本人は、秩序を愛しすぎる。
だが秩序は、痛みがあるからこそ尊い。
痛みを恐れて秩序だけを残せば、それはアウシュビッツになる。
私は、美を守るために、痛みを取り戻したいのです。」
“痛みを取り戻す”――その言葉が、不思議に胸に刺さった。
私はその夜、初めて「痛み」が“倫理”の別名であることを知った。
痛みを感じるということは、まだ他人の存在を許しているということ。
痛みを失えば、人間は機械のように冷たくなる。
そのとき、彼は一瞬だけ、窓の外を見た。
雨が止み、月が顔を出していた。
そして、彼は静かに言った。
「文明が美しくなりすぎたとき、人間は必ず血を忘れる。
血を忘れた社会が、最も醜い。」
III. 講演後
拍手はまばらだった。
誰も軽々しく手を叩けなかったのだ。
外に出ると、空気は冷え、校舎の屋根から雨の滴が落ちていた。
私は友人に言った。
「すごかったな……でも、何を言いたかったんだろう?」
友人は肩をすくめた。
「要するに、美に酔うなってことだろ。痛みを忘れたら人間じゃないって。」
そう言って彼は笑った。
だが、その笑いはどこか居心地が悪かった。
私は黙っていた。
あのとき、講堂の片隅で見た三島の横顔が頭から離れなかった。
彼は誰にも見えない何かを凝視していた。
その目は、未来の戦場か、あるいは自身の最期を見ているようだった。
IV. その後 ― 死の報せ
それからわずか二か月後、私は新聞で彼の死を知った。
テレビに映る防衛庁の屋上。
割れた硝子窓。
血に染まった白装束。
あの日の講演の言葉が、一斉に蘇った。
「秩序は痛みを伴わねばならない」
「美は倫理を離れれば死を呼ぶ」
そして――「痛みを取り戻したい」。
彼はその言葉を、比喩ではなく、実行として残したのだ。
私には、その死が理解を超えていた。
だが一つだけ確信した。
彼にとって死とは、“倫理の最後の言葉”だったのだ。
V. 記憶の中の声
十年が過ぎ、二十年が過ぎても、あの夜の声は消えなかった。
アウシュビッツという名を聞くたびに、私は三島の声を思い出す。
「悪とは、あまりに美しく整ったときに生まれる。」
今の世界はどうだろう。
街は光に満ち、血も痛みも見えない。
戦争の映像すら、映像の中で消費される。
秩序は清潔だ。だが、どこかで魂の腐臭がする。
――三島の言った“痛み”は、もはや人間の記憶から抜け落ちつつあるのではないか。
私は講演ノートを開いた。
鉛筆で走り書きされた言葉が一つ残っていた。
> 「痛みこそが、人間の最後の神性である」
その一文を見たとき、私はようやく理解した。
彼の死は“神性”の回復を賭けた行為だったのだ。
アウシュビッツで失われた人間の神性を、
彼は自らの血で再び呼び覚まそうとした。
VI. 結語 ― 灰の中の光
いま私は、大学で倫理学を教えている。
学生たちは、効率や正義については語るが、
「痛み」について語る者はいない。
彼らは善悪を分析できても、
人間の涙の温度を知らない。
私は講義の終わりに必ず言う。
「人間が痛みを感じる限り、まだこの世界は滅びない」と。
アウシュビッツを訪れた三島由紀夫の声は、
いまも私の中で、静かな鐘のように鳴り続けている。
それは彼自身の死の音ではなく、
人間という存在への最後の警鐘なのだ。
【補記】
「美は痛みを抱くときにのみ、倫理となる。」
― 1970年秋、三島由紀夫講演「アウシュビッツ以後の美」より




