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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第138章  AI 三島由紀夫・講演記録(1970年10月、東京大学)





 みなさん。

 私はつい先月、ポーランドに行ってまいりました。

 アウシュビッツ――その名は、私にとって単なる地名ではなく、「近代の墓碑銘」であります。


 そこに行って初めて、私は近代文明の完成形を見た。

 完成形とは、つまり“完全に美しく整えられた地獄”のことです。

 煉瓦の壁は規律正しく並び、鉄条網はまるで建築装飾のように張り巡らされていた。

 そこでは、死すら秩序に従い、血も涙も統計表の数字に還元されていた。


 つまり、ホロコーストとは秩序が神に成り代わった瞬間の出来事だったのです。


一 秩序の美と倫理の死


 私はこの国で、秩序を美しいと思う心を失いたくないと考えてきました。

 しかし、アウシュビッツで見た秩序は、あまりに“完璧”だった。

 完璧すぎて、人間が不要になっていた。


 秩序そのものが自己目的化したとき、

 そこにはもう倫理も、愛も、痛みも、必要ない。

 ただ一つの“効率”と“清潔”だけが支配する。

 それがあの地獄の本質でした。


 ホロコーストは、狂気ではない。

 むしろ、理性の勝利だった。

 理性が神を殺し、人間を機械の歯車に変えた。

 それが二十世紀という時代の真相です。


二 美の名のもとに行われた殺人


 私は長い間、美というものを信じてきました。

 だが、アウシュビッツを歩くうちに思いました。

 ――美もまた、恐ろしい。


 なぜなら、そこには“整然とした美”があったからです。

 焼却炉の煙突は見事な比例を保ち、記録簿の字体は几帳面で、

 ガス室の扉の鉄の光沢には、一種の工芸的気品すらあった。


 人間は、美を秩序と取り違えたとき、最も残酷になる。

 悪とは、醜いものではない。

 悪は、あまりに美しく整ったときに生まれる。


 あの場所にいた技術者も官僚も、自分を悪人だとは思っていなかったでしょう。

 彼らは“美しい仕事”をしているつもりだったのです。

 ――清潔に、静かに、規律正しく。


 美の名のもとに行われた殺人ほど、危険なものはない。

 私は、文明の根底に潜むこの“美の狂気”を直視しなければならないと思いました。


三 肉体の沈黙


 アウシュビッツの土を踏んで、私が最も衝撃を受けたのは、

 死体が一つも残っていないという事実でした。


 死者は消され、灰にされ、川に流された。

 この“肉体の不在”こそが、近代の恐怖の本質であります。


 今日、われわれの社会でも、肉体は軽蔑されています。

 肉体の痛み、汗、疲労、戦い――そうしたものは時代遅れだとされ、

 精神と技術だけが進歩の象徴とみなされている。


 しかし、アウシュビッツが証明したのは、

 肉体を忘れた文明は必ず死を量産するということです。

 なぜなら、肉体は倫理の最後の砦だからです。

 痛みを感じる者は、他人の痛みを理解する。

 肉体を失った者は、他人の苦しみを“データ”としてしか見ない。


 私は、近代の病をこの“痛覚の喪失”に見るのです。


四 日本のアウシュビッツ


 では、われわれの国には関係ないのか。

 決してそうではない。


 日本もまた、アウシュビッツ的秩序の誘惑に満ちています。

 経済のため、効率のため、平和のため――

 そう言えば、どんな非人間的な制度も正当化できる。


 戦後の日本人は、「血の流れない秩序」を理想としてきた。

 しかし、血を恐れ、死を避け続けた民族が、

 果たして“生”の真実を語る資格があるでしょうか。


 アウシュビッツを造ったのはドイツ人でした。

 だが、それを支えたのは「秩序を愛する精神」でした。

 もしわれわれが秩序を“痛みのない形式”としてしか理解しないなら、

 次のアウシュビッツは、東京のどこかに現れるでしょう。


五 痛みと美の再生


 私はこう考えます。

 美を救うためには、痛みを取り戻さねばならない。


 美が倫理を失うとき、それは政治になる。

 しかし、美が痛みを抱くとき、それは祈りに変わる。


 アウシュビッツの跡に立ったとき、私は確かに“祈り”を感じました。

 それは宗教的なものではない。

 むしろ、人間がまだ人間であろうとする最後の抵抗でした。


 その抵抗の形は、もはや言葉では表せない。

 だから私は、肉体で語りたいと思う。

 剣の切先で、最後の言葉を刻みたいと思う。

 死が来るその瞬間まで、痛みと共に、美を守り抜きたい。


六 結び ― 死は沈黙の倫理である


 アウシュビッツを見たあと、

 私は“生きる”ということの意味を改めて問わねばならぬと感じました。


 死を忘れた文明は、必ず死を量産する。

 死を恐れる文明は、やがて死よりも醜い生をつくる。

 私がこの国で死を語るのは、死を讃えるためではない。

 死を通してしか、生の尊厳を取り戻せないと思うからです。


 アウシュビッツは、人間が倫理を失ったときに到達する極点でした。

 だが、その極点を見た今だからこそ、

 私は“美しい死”ではなく“痛みある生”を信じたい。


 みなさん。

 文明がいかに整っても、魂の痛みを消してはいけません。

 痛みは、人間がまだ神に見放されていない証です。


 ――アウシュビッツ以後の美とは、

 痛みの中でなお生きようとする人間の姿そのものなのです。


(講演記録・了)


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