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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第137章 AI《アウシュビッツ巡礼 ― 三島由紀夫幻視紀行》



 空は不自然なほど澄み切っていた。

 その蒼さは、あまりに完璧で、かえって不吉だった。

 鉄条網の向こうに広がる平原は、もう草の匂いを取り戻している。

 だが、足元の土は柔らかく、靴底が沈むたび、遠い呻きが地の底から漏れるようだった。


 私は、アウシュビッツという名の“墓場”に来ていた。

 墓碑はなく、祈りの声もない。あるのは秩序の骨格だけだ。


I. 秩序としての死


 煉瓦の壁、鉄の扉、残された台帳、金歯の山。

 それらは、死がいかに秩序の中で生産されうるかを示していた。

 この場所において死はもはや悲劇ではない。工程であり、管理された熱力学であった。


 私は立ち止まり、ある数字を見た。

 「每日処理数 2000 名」

 ――この“処理”という言葉の冷たさに、戦慄ではなく、美的な恐怖を覚えた。

 完全な秩序。完全な冷酷。

 そこに漂う“数学的完璧さ”こそ、文明が発狂する瞬間の美である。


 しかし私は思う。

 この美は、精神なき美である。

 ここに神はいない。

 秩序だけが神に成り代わった。


II. 機械の沈黙


 ガス室の内部に入る。

 壁面には爪痕がある。

 爪の痕跡は、かつての肉体が“存在”を主張した最後の言葉だ。

 私はそれに手を触れた。

 石は冷たく、静謐で、まるで美術館の彫刻のようだった。

 死者の叫びが造形に昇華している。


 この“冷たい完璧”に、私は自分の国の未来を見た。

 機械的秩序を礼賛し、精神の苦悩を嫌悪する文明。

 日本もまた、このガス室の延長線上にあるのではないか。

 美しい秩序を志しながら、心を捨てて進む――その結果が、

 ここでの“無音の死”だったのだ。


III. 肉体の不在と私の羞恥


 死体はもうない。焼却炉は灰の匂いを失い、

 骨は川に流され、煙は空に溶けた。

 だが、私はこの**“肉体の不在”に対して恥を感じた。**

 この場所のすべてが“思想の勝利”であるからだ。

 思想が肉体を凌駕し、理念が血を蒸発させた。


 私はこれまで、「美とは肉体が思想を裏切る瞬間である」と信じてきた。

 だが、ここではその裏切りがなかった。

 すべての肉体が、思想に従順に死んだ。

 それゆえに、この死は醜悪である。


 肉体とは、神の最後の抵抗である。

 その抵抗が殺されたとき、人間は人間をやめる。


IV. “清潔なる悪”という幻


 私は、展示室の片隅に立ち並ぶガラス箱を見た。

 髪の山、義歯、眼鏡、靴。

 それらが一つの清潔な美術館的秩序で並べられていることに、

 私は皮肉な安堵を覚えた。


 ――美しい。

 しかしその美は、すべての痛みを忘却するための美だ。

 “清潔”という言葉ほど残酷なものはない。

 悪が清潔さを装うとき、それはもはや悪ではなく、美の模倣となる。


 ここでは悪も理性的で、地獄は幾何学的で、

 人間の愚かさすら“整頓”されていた。


V. 風と声


 外に出ると、風が吹いていた。

 それはまるで、無数の声が一斉に語りかけてくるようだった。

 「我々は、死んでも秩序の中に閉じ込められた」

 そう言っているように思えた。


 私は静かに頭を垂れた。

 祈りではない。

 これは、思想に対する哀悼である。

 思想が人間を救うと信じた者たちが、思想によって殺された。

 そのことへの沈黙の謝罪だった。


VI. 帰路 ― 焼け跡の鏡像


 帰りの列車の窓に映る自分の顔は、

 どこか、鉄条網の影を背負っていた。

 人はこの地を“過去”と呼ぶ。

 だが、過去とは常に“未来の予告”である。

 我々の文明が再び肉体を軽蔑し、精神の純粋を讃えるとき、

 この地の灰は再び舞い上がるだろう。


 私は思う。

 美の名のもとに人間を殺すことは、永遠に可能だ。

 それを防ぐ唯一の方法は、

 美の中に“痛み”を取り戻すことだ。


 痛みこそ、人間の最後の神性である。


VII. 結語 ― 灰の中の美


 列車が遠ざかる。

 空は再び澄み渡り、太陽が西に傾く。

 その光は、金属のように硬く、どこか神々しい。

 私は思わず、拳を握った。

 この文明の中で、再び肉体と精神を結びつけねばならぬ。

 でなければ、我々のアウシュビッツはこれから始まるのだ。


【後記】


本作は虚構であるが、三島由紀夫がもし本当にアウシュビッツを訪れたなら、

彼が最も凝視したのは“悲劇”ではなく“秩序”であり、

その秩序の冷たさを通して「美と倫理の断絶」を悟ったであろう。


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