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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第135章 血脈の剣 ― 現代への遺書



 退院してからの数週間、真澄はほとんど眠らなかった。

 窓の外には早春の光。

 だが、彼の部屋には静かな熱がこもっていた。


 机の上には、開かれたノートパソコン。

 タイトルバーには、こう記されている。


『言葉と血 ― 三島由紀夫の継承』


 彼は、ゆっくりとキーを叩いていた。

 一字ごとに、かすかな痛みが腹の奥を走る。

 その痛みが、彼にとっての“生の証”だった。


 論文の冒頭には、ただ一行。


「死は過去のものではなく、今を生かす形式である。」


 そこから文章は流れ出すように続く。


 ――三島由紀夫は死を「完結」としてではなく、

 “倫理の最後の行為”として構築した。

 その行為は失敗ではなく、現代における

 痛覚の再生装置として働き続けている。


 彼は引用を並べ、解釈を積み重ね、

 そしてすべての理論の上に、静かに自分の言葉を置いた。


「三島の死を神話に変えたのは我々自身だ。

だが、神話は死を超えて生を問い直すための言語である。

死を嘲笑する社会は、すでに痛覚を失った社会だ。」


 指先が止まった。

 彼は深く息を吸い、画面を見つめた。

 カーソルが点滅している。

 そのリズムが、まるで心臓の鼓動のようだった。


 数日後、大学の講堂。

 壁に吊るされたスクリーン、壇上のマイク。

 卒業論文発表会――最後の登壇者が、真澄だった。


 聴衆は学生と教員合わせて百人あまり。

 ざわつきの中で、彼はゆっくりと壇上に立った。

 スーツの内ポケットには、祖父の短刀の鍔。

 その重さが胸に響く。


 彼は静かに言葉を発した。


「三島由紀夫という名前を、皆さんは“過去”と呼ぶ。

だが、僕にとって彼は“現在形”です。」


 ざわめきが止まる。

 彼はスクリーンに映した一文を指差した。


「死は過去のものではなく、今を生かす形式である。」


 そして、彼は観衆を見渡した。

 声のトーンを少し落とし、ゆっくりと語り始める。


「彼の死を笑うな。

あれは、我々の痛覚の再生装置だ。

我々はもう痛みを感じなくなった。

SNSで罵倒し、愛を数字で量り、

生を“情報”に変えて消費している。

だが、痛みを忘れた社会に、倫理は存在しない。」


 静寂。

 誰も動かなかった。

 彼の声だけが、ホールの天井に反響していた。


「三島は、死をもって“形式”を守った。

彼にとって肉体は思想の最後の器であり、

その器が壊れる瞬間こそが、

美の到達点だった。」


 言葉を区切りながら、真澄は胸に手を置いた。


「僕は、その形をもう一度“今”に取り戻したい。

破壊ではなく、再生として。

血ではなく、言葉として。」


 彼の声がわずかに震えた。

 誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


 演説の終わり、真澄は壇上の机の下から

 一本の布包みを取り出した。

 包みを開くと、銀色の刃が光を返した。

 ――祖父の短刀。


 会場がざわめいた。

 教員が席を立とうとする。

 だが彼は静かに笑い、

 その刃を両手で持ち上げた。


「恐れることはない。

これは、もう“死”のための刃ではない。」


 彼は壇の上に立ち、

 黒板の前へ歩み出た。


 そして、観衆の前で短刀を高く掲げた。


「三島が守ろうとしたのは“形”だ。

だが、形は変えられる。

今日、この刃をもって――

僕は“血の記憶”を言葉に変える!」


 そう言うと、

 真澄は短刀を黒板に突き立てた。


 金属音が響き、粉塵が舞った。

 会場が息を呑む。


 刃は黒板を深く貫き、

 白いチョークの粉が流れるように落ちた。


 黒板の表面に、鋭い線が走る。

 まるで“文字”のようだった。

 そこに浮かび上がった言葉は――


「美とは、痛みの中にだけ宿る」


 誰も声を出さなかった。

 雨のように落ちるチョークの粉が、

 まるで血の代わりに流れているように見えた。


 真澄はゆっくりと手を離した。

 短刀は黒板に刺さったまま、

 光を放っていた。


 彼は観衆を見渡し、静かに言った。


「死を模倣する必要はない。

だが、死を忘れることは罪だ。

我々の時代がもう一度“生きる”ためには、

痛みを取り戻さねばならない。

それが、僕の遺書です。」


 会場に沈黙が広がった。

 窓の外で風が鳴り、

 夕陽がガラス越しに差し込んでいた。


 光が彼の顔を照らす。

 その表情は、穏やかだった。

 怒りも狂気も、もはやそこにはなかった。

 ただ、静かな微笑。


 沙耶が観客席の後方で立ち尽くしていた。

 涙の跡を隠すように手を口元に当てている。

 真澄が彼女を見つけた。

 二人の視線が重なる。

 何も言葉はいらなかった。

 それだけで、すべてが通じていた。


 彼は小さく頷き、黒板の前に立ったまま、

 低く呟いた。


「三島は、ようやく眠れる。」


 その声は、祈りのようだった。


 外の光が赤くなり、

 講堂の壁が金色に染まっていく。

 黒板に刺さった短刀が、

 夕陽を反射して輝いた。


 やがて、風がカーテンを揺らし、

 その刃の光が真澄の頬を照らした。

 彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


 ――その静けさの中で、

 確かに“血脈”は完結していた。


 彼の中で、

 三島由紀夫という名の炎は、

 ようやく穏やかな灰となった。


 翌朝。

 大学構内の掲示板に、ひとつの言葉が貼られていた。

 誰の仕業か分からない。

 だが、手書きの筆跡は、どこか懐かしかった。


「美とは、痛みの中にだけ宿る」


 その紙は、朝の風に揺れながら、

 新しい陽の光を受けていた。



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